『ミヒャエル・コールハース/チリの地震』ハインリヒ・フォン・クライスト「裁きの天使がかくして天より降る」

目次

先にまとめから~「許せない!」そんな時、あなたなら?~

 いつも本ブログをお読みくださっているみなさんも、全身が怒りで震えるくらい理不尽な目にあわれたことが一度や二度はあるかもしれませんね。
 その時、あなたはどうされましたか?
 黙って一人で耐えた?
 許しがたい思いを誰かに話した?
 それとも──猛然とやり返した?

 クライストの中編『ミヒャエル・コールハース』の主人公コールハースは理不尽な仕打ちへの怒りに燃えて、国をも揺るがす復讐を始めました。

 コールハースと同じことを、現代の私たちはできません。ですが、私はコールハースにこう言われているような気がしました。
「あなたは怒っていいんだ」
「せめて私を見て、少しでも無念を晴らしてくれ」

と。
 あなただったら、コールハースの行動からどんな声を聞きとりますか?

 一緒に収録された短編2作とあわせて、こんな方におすすめします。

・ずっと晴らせずにいる怒りを抱えた方
・「悲劇的」「シリアス」「緊張感」といったワードが大好物という方
・「不遇の天才」と聞くと心がときめく方

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美濃達夫さんとの会話

(架空の人物・美濃達夫さんに本書をご紹介する、という設定で書いております)

「なにわt4eさん、理不尽なことってあるもんですよね」

 どうなさいました美濃さん、ずいぶん気色ばんでおられますが。

「昨夜友人と会う機会がありまして。そいつはスポーツインストラクターで、ある中学校の空手部コーチもしてるんですが、部活中に生徒が左手首をひねってしまったんです」

 ええ。

「かなりの痛がりようだったので友人は病院へ連れて行こうとしたんですが、報告を受けた顧問がその子の手首を変にグキグキ動かしたものだからさらに生徒が激しい痛みを訴えたらしいんです」

 ちょっと待ってください、顧問とは言っても整形外科とかは素人ですよね?

「もちろん。それを知った友人が大慌てで病院に連れて行ったので大事には至らずにすんだようなんですが、その責任を顧問になすりつけられたと言ってました」

 そんなことが!?

「幸い誤解は解けたものの、顧問がどう立ち回ったのか『コーチの監督不行き届きには間違いない』という結論になってしまったそうです」

 それは、美濃さんはもちろんご友人としては許しがたいでしょう。

「ええ、昨日その話を聞かせてくれたんですが、本当に憤懣やるかたないという感じでした。できるものなら顧問を組手で叩きのめしてやりたい、とまで言ってしたよ」

 そりゃそうでしょう。それで理不尽とおっしゃったんですね。

「そうです」

 何だかミヒャエル・コールハースを思い出しますね。

「ミヒャエル・コールハース? それは何ですか?」

 18世紀ドイツの小説なんですが、まさしく理不尽な目にあわされた男の凄まじい復讐物語です。

あらすじ

「とても興味を引かれますね、どんな話ですか?」

 短編集『ミヒャエル・コールハース/チリの地震』に収められた、ハインリヒ・フォン・クライストという18世紀ドイツの作家の代表作です。

『ミヒャエル・コールハース』

 馬商人ミヒャエル・コールハースは二頭の馬を売りに出すつもりで旅に出ますが、旅先でユンカー(※)のヴェンツェル・フォン・トロンカに馬を騙し取られ、行政に訴えるもたらい回しの目にあいます。妻が交渉のためヴェンツェル・フォン・トロンカを訪ねますがリンチに遭い、帰宅後しばらくして息絶えました。怒りに燃えたコールハースは信頼する下僕数名を引き連れて、敵の城下町に火を放ちます。彼の勢いはとどまるところを知らず……。

※……農地を支配する地方貴族。

『チリの地震』

 チリの貴族の一人娘ホセファと彼女の家庭教師ヘロニモは恋仲になりますがホセファの父親は激怒し、ホセファを修道院に入れてしまいます。しかし二人は修道院の庭でひそかに会っており、やがてホセファは大聖堂で赤子を産み落とします。投獄されていたヘロニモが首を吊ろうとし、ホセファが火あぶりになろうとしていたその瞬間、1647年に実際に起きた歴史的な大地震が発生しました。命拾いした二人と赤子はがれきの山の中で再会します。彼らは救いを求めて教会を訪れますが、「この地震は町の道徳が乱れたことに対する神の怒りである」と語る司祭に扇動された群衆が三人と、そして道中三人が知り合った道連れであるフェルナンドたちに襲いかかります。

『サント・ドミンゴでの婚約』

 ハイチ革命を背景として、白人の皆殺しを企む黒人ホアンゴに支配される一家へ、そうと知らず白人男性アウグストが一晩の宿を乞うて転がり込みます。一家の娘トニはアウグストと情を通じ、彼を助けるため一芝居打つのですが……。

『ミヒャエル・コールハース』──理不尽なものへの怒り

「敵の城下町に放火するとは凄まじいですね」

 ええ。で、肝心のヴェンツェル・フォン・トロンカがそこにいないとなると執拗に追跡し、「奴を引き渡さないならさらに町を焼く」と宣言します。作者は彼をこう表現します。

民を虐げる者を炎と剣によって追い立てた死の天使(P.84)

 とは言えコールハースは、極めて常識的な人物でもあります。

「常識的!?」

 もちろん彼の復讐はとても常識的とは言えませんが、例えば自分に同行してヴェンツェル・フォン・トロンカに相応の罰を与えるつもりはあるかと下僕のヘルゼに尋ねると、ヘルゼは

あいつにしごきとは何かを叩き込んでやりますよ(P.47)

と即答しています。のちにヘルゼは戦闘で殺されますがコールハースはこれに激怒して獅子奮迅の闘いをし、法廷に対してはヘルゼの母親に対する財政的な補償すら要求しています。

「やってることの是非はともかく、『上司に誠心誠意尽くす部下と部下思いの上司』という構図が見えますね」

 はい。また、宗教改革の指導者マルティン・ルターが自分を非難する声明を出したことでコールハースはルターと対峙します。

おまえはドレスデンの法廷にいったい何を望むのか、とルターは尋ねた。コールハースは答えた。法にもとづいてユンカーに処罰を与えること、馬たちを元通りの状態にしていただくこと、そしてわたくしと、ミュールベルクで戦死した下僕ヘルゼに、わたくしどもに対してなされた暴力行為で被った損害を埋め合わせていただくことです(P.71)
おまえの剣がユンカーに対して復讐を、しかも考えられうる最も厳しい復讐を行ったというのに、ユンカーへの刑の宣告におまえがそれほどまでに固執するよう仕向けているのはいったい何か。(中略)──コールハースは頬に涙を流しながら答えて言った。先生、わたくしは妻を失うことになったのです。わたくしは、妻が不正な取引で命を落としたのでは決してないということを世に示したいのです。(P.72)

「そこだけ聞く限り、すごくまともなこと言ってませんか?」

 そうなんですよ。しかもこの場面、ルターの方が激昂していて、コールハースはルターに敬意を表しつつ自分の罪もきちんと認めています。
 また、規律を重んじて配下の暴走を許さない面もあったり、妻子に対して愛情深かったりします。

「まるで『理不尽さへの怒りに燃えながらも人間らしく生きることはできるのか』という問いかけみたいですね」

 本当ですね。

『チリの地震』──共同体と暴徒の怖ろしさ

「ホセファの父親が激怒したというのは、身分違いの恋に対してということですか?」

 はい。ヘロニモが投獄されたのは、未婚の女性と婚外子をもうけたことへのとがめだと思います。なにしろ17世紀ですから。で、地震のため図らずも自由の身となったヘロニモとホセファ、そしてホセファに抱かれた赤子フェリペは再会します。彼らと、そして彼らが知り合いになったフェルナンドたちを含む被災者たちは助け合って命をつないでいました。

貴族に乞食、品のよいご婦人に農婦、官吏に日雇い人夫、修道僧に修道女、彼らが互いに同情しあい、かわるがわる援助をしあい、自分の生活を保つために持ち出したものを喜んで分かち与えるそのさまは、みなにふりかかったあの不幸によって、そこから逃れたあらゆる人たちがあたかも一つの●●●家族になったかのようであった。(P.181、傍点は原文のまま)

「そこまでだけをお聞きすると、地震以外は平和な物語のように聞こえますが?」

 問題はここからです。これ以上の被害が起きないよう神に祈るべくミサが捧げられるとの噂を聞きつけて、ヘロニモ一行は教会へ向かいました。ところがそのミサで、先ほどお話ししたように司祭に扇動された暴徒が彼らを襲います。

「私は信徒でないのでよくは分かりませんが、救いを求めて教会へ来たんでしょうに、よりによってその教会で襲われるとは……」

 ええ、本当に皮肉な話です。しかもヘロニモとホセファはもともと地元で不品行と糾弾されていたのでなおさらです。

「共同体の麗しき助け合いのすぐ後に、共同体のおぞましさが浮き彫りになってますね」

 ええ。

『サント・ドミンゴでの婚約』──人種の壁・悲しい誤解

 この作品はハイチ革命(※)が背景にあります。まずホアンゴは黒人で、白人を片っ端から殺そうとしています。彼の面倒を見る女性バベカンと彼女の娘トニが一緒に暮らしていますが、ホアンゴやバベカンと比べてトニは白人への敵対心をあまり強くは持ってないように見えます。

「ホアンゴの指示で、彼らは一晩泊めてくれと頼むアウグストを殺そうとしたわけですか?」

 はい。正確には、たまたまホアンゴが留守にしていた間にアウグストがやって来て自分と、離れたところに隠れている自分の親類に、逃避行のための食料を分けてくれと頼んだんです。

 ところがトニとアウグストはひそかに恋仲となり、結婚の約束を交わします。そこでトニはアウグストと彼の親類を救うための芝居としてアウグストを拘束するのですが、皮肉にもアウグストはトニが裏切ったと誤解しました。

「……それ、アウグストとトニが同じ人種だったら起きなかった誤解かもしれませんね」

 白人であるアウグストの、異人種に対する潜在的な不信感ということですか?

「そうです」

 言われてみれば、考えられますね。アウグストがトニに惹かれる場面では

彼には不快に思われる肌の色は別として(P.217)

と書かれていますから。異人種への不信感という意味で現代においても非常にリアルな作品かもしれません。最終的にアウグストは自分の誤解に気づくのですが、後の祭りでした。

「私を信頼しないということがあってはならなかったはずなのに!」この言葉とともに、彼女は美しい魂を息のようにはき出した。(P253~254)
そのとおりだ!(中略)あなたを信頼しないということがあってはならなかったはずなのに。私たちはたしかにそのような言葉を何も交わしてはいなかったけれど、あなたは誓いによって私と婚約で結ばれていたのだから!(P.254)


※……1791~1804年に起きた、黒人奴隷の蜂起による革命。ハイチ建国のきっかけとなった。

悲劇の中の救い

「いろいろとお聞きしてますと、どれもかなり救いのない話みたいですね」

 おもしろいことに、そうとも言い切れないんですよ。

「どういうことですか?」

 コールハースは極めて平穏な心境で最期を迎え、黒馬をはじめとする自分の財産やヘルゼの母親に対する補償もコールハースが求めた通りの形でなされました。
『チリの地震』でも、フェルナンドは孤児となってしまった赤子フェリペを引き取り妻エルビーラと二人で育てます。またホセファの誇り高い最期は胸を打ちます。
『サント・ドミンゴでの婚約』でも、トニとアウグストは最終的に結ばれたと言っていいでしょう。

 クライストって陰惨で緊張感の高い作風で有名でして、実際その通りですが、今回お話しした三作はいずれもそうした救いが描かれているので胸のつかえがほぐれるような読後感があります。この短編集がそれを基準に編まれたのかどうかは分かりませんが。

「そうお聞きすると少し安心しました、重苦しいだけだとやっぱり読むのをためらっちゃいますから」

なにわt4eの感想

「なにわt4eさんはこの本を読んでどう思われましたか?」

 大学時代から数年に一回、思い出したように読む作家なんですが、先ほどお話しした救済には今回初めて気がつきました。「望んでもいない形で与えられる救いに意味なんかあるのか」「いや、望んだ形ではなくても救いがあるなら生きることには意味があるんじゃないか」という問いを提示されたような気がして、クライストの新たな魅力を発見した思いです。彼の中心テーマとは考えにくいですけどね。

 あと『サント・ドミンゴでの婚約』には人種差別、『チリの地震』には共同体のおぞましさ、そして先ほどは省略しましたが『ミヒャエル・コールハース』にも実は職業差別が描かれています。これらはクライストが社会的テーマに関心を持っていたというよりはクライストお得意の「平穏な日常があるきっかけで一気に崩壊する」物語を書く上で必然的に触れられたものだと思いますが、社会的な観点から彼の作品を読むのもおもしろいかもしれません。

 クライストって、秩序や人格的成長を重視する古典主義と幻想や感情表現を重んずるロマン主義の間でドイツ文学が揺れてる時期に、そのどちらでもない作家として独自の位置にいる人なんです。極端に走る激しい性格のためかやることなすこと上手くいかず若くしてピストル心中を遂げましたが、アウトサイダー的な立ち位置も災いしたかもしれません。「不遇の天才」を地で行くような人ですが、作品は長く読み継がれていて、カフカのような作家に限らず現代思想家にも大きな影響を与えたと言われています。

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『チリの地震』ハインリヒ・フォン・クライスト
 こちらは河出文庫の短編集で、収録作品と翻訳が異なります。『拾い子』『ロカルノの女乞食』などは本当に救いもへったくれもない陰惨な物語ですが、覚悟を決めて読めばエキサイティングな作品ぞろいです。収録エッセイ二編については、ごめんなさい。私はあまり理解できませんでした。

『ヒュペーリオン』フリードリヒ・ヘルダーリン
 クライスト同様に古典主義とロマン主義のどちらからも外れたアウトサイダーですが、作風は全く異なり、天上の世界をかいま見るごとき晴れやかな崇高さが魅力。詩人ヘルダーリンが唯一残した小説である本作では、古代ギリシアに理想郷を見出す若者ヒュペーリオンが戦争、テロ組織への加入と決別、恋人や親友との別れを通じて最後に平和を見出します。
 ちくま文庫版がありましたが現在は絶版らしく、リンク先はキンドルで復刊された古い翻訳のため、読みづらいかもしれません。それでもご一読の価値はあります。リンク先書籍情報の「続きを読む」にて【kindle出版にあたっての指針 】をご確認ください。


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この記事を書いた人

名もなき大阪人、主食は本とマンガとロックです。

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