こんにちは。なにわt4eです。洋書チャレンジ9回目、いよいよミッジ加入後のウルトラヴォックスが動き始めます!
※お断り
洋書チャレンジの記事において、引用文は特に断りがない限り全て私の訳です。
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売れてなかったウルトラヴォックス
ジョン・フォックス時代のウルトラヴォックスは、パンクとエレクトロニクスを融合させた先進的なサウンドが一部では熱狂的に支持されたもののヒットには恵まれませんでした。加えて所属していたクリサリスレコードに対して負債を負っており、アメリカツアーから戻った時は解散に近い状態。
ウルトラヴォックスは壊れたバンドとなって戻ってきた。ジョン・フォックスは脱退したしギタリストのロビン・サイモンはアメリカで恋人ができてそっちに戻ったのだ。(P.83)
原文では and the guitarist Robin Simon fell in love and went back to the States. とあります。私はここを上記のように訳しましたが、直訳すると「恋に落ちてアメリカに戻った」なので、もしかしたら「アメリカと恋に落ちた」、つまり「アメリカが大好きになったのでアメリカに戻った」という意味でしょうか? ともあれそこにミッジ・ユーロが加入しました。5人編成から4人編成に変わったのですが、ジョン・フォックスはヴォーカル専任、ロビン・サイモンはギター専任、後釜のミッジ・ユーロは両方兼任していたので二人分の穴が同時にふさがったわけです。ミッジとしてもある種の「渡りに船」だったようで、彼はこう述懐しています。
こういうバンドに参加するというアイデアはとてつもなくエキサイティングだった。キーボードとテクノロジーを駆使したいという私の望みがこれでかなうことを期待していた。(同上)
ミッジから見て他のメンバー、クリス・クロス(ベース)、ウォーレン・カン(ドラム)、ビリー・カリー(キーボード)はどんな人物だったのでしょう?
ベースプレイヤーのクリス・クロスとはすぐに馬が合った。ドラマーのウォーレンは付き合いやすい人物だったので問題なかった。ビリーのことはすでに知っているつもりだったが彼は想像していたより手ごわいと分かった。いわゆる気分屋だったのだ。当時私は寝室が二つある住居を買う計画を立てていたのでビリーに一つ貸そうかと持ち掛けた。クリスが私をわきへ引っ張ってこう言った。「やめとけ。3か月でビリーを殺しちまうのがおちだ…そんなのバンドには災難以外の何物でもない」(同上)
なんだかビリーはえらい言われようですが、ミッジはビリーからバンドが受けた大きな影響と、4人の音楽的な力関係をこう振り返ります。
私はメロディや曲の構成をビリーから大いに教わった。ビリーはクラシックの訓練を受けたヴィオラとピアノの奏者で、ベルリン風やプラハ風の影響をもたらした。(P.84)
誰もが貢献して、作曲のクレジットを4人で共有した。全員が協力した古典的な例が「ヴィエナ」だ。(同上)
あるインタヴューでもミッジは「ウルトラヴォックスに独裁者はいなかった」と語っています。バンドはとても民主的に運営されていて、ミッジもそれを喜んでいたのですね。
ミッジがウルトラヴォックスに正式加入したのは1979年11月1日(P.86)ですが、前後してシン・リジィでの活動も続いていました。なおこのときウルトラヴォックスのツアーにイアン・コープランドなる人物がかかわっていますが、古いロックファンならピンと来るでしょうか、彼はかつてポリスのドラマーだったステュワート・コープランドの兄弟。ミッジはポリス最初期のライヴを目撃しているので、ウルトラヴォックスとポリスは何かと縁があったのですね。
また、ミッジ加入後のウルトラヴォックスがアメリカのレコード会社EMIと契約する際にレコード会社はピンハネめいた条件を吹っかけてきたようですが、クリス・オドネルとクリス・モリソンのコンビが猛然と反論。法的手段に訴える用意もあると伝えてEMIをやり込めたそうです。(P.86)
この頃ウルトラヴォックスは音楽業界でほぼ見放されていたとミッジは書いてますが、そうした人たちはのちに歯噛みをして悔しがったことでしょう。
フロントマン交代。ファンの反応は?
ディープ・パープル(イアン・ギラン→デヴィッド・カヴァーディル)
ジェネシス(ピーター・ゲイブリエル→フィル・コリンズ)
アイアン・メイデン(ブルース・ディッキンソン→ブレイズ・ベイリー)
ヴァン・ヘイレン(デヴィッド・リー・ロス→サミー・ヘイガー)
イエス(ジョン・アンダーソン→トレヴァー・ホーン)
などなど、偉大なフロントマンが交代したバンドは少なくありません。ジョン・フォックスからミッジ・ユーロに交代したウルトラヴォックスもそうでした。交代劇の後も絶賛されるバンドがあったり(例:ヴァン・ヘイレン)ボロカスに叩かれたバンドがあったり(例を挙げるのは控えておきます)しますが、ウルトラヴォックスはどうだったか?
ミッジ参加後初のイギリスツアーは、規模こそ大きくなかったもののファンの反応はかなり良好でした。
筋金入りのファンは私がそこにいることを受け入れてくれたようだった。ピーター・ゲイブリエル時代のジェネシスの曲を歌うフィル・コリンズのようなものだ。移行はスムーズに進んだが、自分の雑多なバックグラウンドを私が持ち込んでいたらかなりぎくしゃくしていたかもしれない。新曲を聴いて古いファンはバンドが劣化したというより何か新しいものが持ち込まれたと受け止めていた。(P.86)
傑作『ヴィエナ』完成!
そんなこんなで、契約面では苦労しつつもファンから良好な反応を得たウルトラヴォックスはアルバム制作を開始しました。プロデューサーはコニー・プランク。クラフトワークやノイ! などとの共同作業で知られ、ドイツのエレクトロニクスミュージック黎明期を語るにあたって外すことのできない人物です。ウルトラヴォックスの3作目『システムズ・オヴ・ロマンス』でもプロデューサーを務めた彼をそのまま起用したのは、やはり強いテクノロジー志向が現れているのでしょう。
コニー・プランクは英語は今一つだったものの曲のイメージを映像的に表現することには長けていたらしく、タイトル曲「ヴィエナ」の原型を聴いてメンバーに伝えたイメージがプロモーションヴィデオに活かされています。万事順調というわけではなくシンセの一定しないテンポ調整にドラムの録音が振り回されたそうですが、ウォーレンがテンポを合わせたりコニー・プランクがテープを切り貼りしたりして見事に合わせました。時は80年代初期、テープを切ったりつないだりのスキルが音楽の編集に極めて重要な時代でした。
そうして、ダイナミックな演奏と冷徹なエレクトロニクスサウンド、ニヒルでダンディな美意識と優雅なメロディが融合した傑作『ヴィエナ』は誕生しました。リリースは1980年7月11日。セブンイレブンです。どうでもいいか。のっけから7分近いインストゥルメンタルという構成は、今思うとかなりの冒険だったのではないでしょうか。これもドイツのプログレ畑で活躍したコニーの影響? もともとギタリスト志向が強かったミッジのイキイキとしたギター、スケールが大きいビリーのシンセとヴィオラ、クリスとウォーレンのヘヴィなリズムが織りなすサウンドは今聴いても新鮮です。
次回はアルバム『ヴィエナ』の反響が書かれた箇所についてお伝えする予定です。お楽しみに!
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