『存在のすべてを』(塩田武士)2024年本屋大賞第3位! 写実画を通じて人間の真実を探るミステリー

目次

先にまとめから

 人が人を愛する心につけ込む極めて卑劣な犯罪──誘拐。もしも、そんな誘拐事件が二つ同時に起きたとしたら? 一方の人質がすぐに解放されて、もう一方が長い間帰ってこなかったら? その時、写実画は何を語るのか? 事件を追う人々、巻き込まれた人々の思いは?  

 2024年本屋大賞第3位に輝く本書・塩田武士『存在のすべてを』は、犯罪小説の体裁をとりつつも人間の愛と誇りを静かに問いかける名作です!

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美濃達夫さんとの会話

(架空の人物・美濃達夫さんに本書をご紹介する、という設定で書いております)

「なにわt4eさん、本屋大賞ってどういう賞ですか?」

 全国の書店員さんが「一番売りたい本」に投票して決める賞です。設立されて20年くらいですが(本記事の執筆時点)、すっかり定着してますね。話題性としては、河崎秋子『ともぐい』(←本ブログの紹介記事へ飛びます)の時にお話した芥川賞や直木賞に匹敵するんじゃないでしょうか。

「そうなんですか。実は、最近その本屋大賞を受賞したという本でおもしろそうだなと思ったものがあるんです」

 何という本ですか?

「『存在のすべてを』です」

 あ、それ私読みましたよ!

「どうでしたか?」

 すごくおもしろかったです。人間の真実を掘り当てようとしている作品だと感じました。

「すごくおもしろそうですね! まずあらすじを教えてください」

 1991年12月11日、神奈川県厚木市で誘拐事件が発生します。被害者は小学生・立花敦之。警察がこの事件に全力を注ぐスキをついて、ほぼ同時に横浜市でもう一件の誘拐事件が起きました。こちらの被害者は内藤亮、4歳。母親の内藤瞳は夫と別居中の実質的なシングルマザーでしたが亮には無関心で、脅迫されたのは祖父母の木島茂・塔子夫妻でした。敦之は間もなく保護されましたが亮は思わぬハプニングや木島茂と警察との連携不足が災いして保護に失敗、行方不明となります。

 事件から3年後、亮は突如木島宅に姿を現し「ここで育てて欲しい」と訴えます。彼の様子から亮をていねいに育てた何者かの存在がうかがわれるものの、亮は決して「空白の3年間」を語ろうとしません。ただ彼は写実画の尋常ならざる才能を見せていました。

 事件発生から約30年の時が流れ、事件を担当した刑事・中澤洋一が病死。時を同じくして写真週刊誌にある暴露記事が掲載されます。決して顔出しせずに活動する写実画家・如月脩は内藤亮だという記事でした。時効の成立後も刑事や新聞記者が真相を追っていたのですが、この記事をきっかけに調査が大きく動き出します。新米記者として事件を追っていた門田次郎。新人育成に情熱を燃やす画商・岸朔之介。かつて亮と同級生だった土屋里穂。絵画を愛する経営者・酒井龍男。様々な人物の思いが交差する中で、次第に明らかにされる「空白の3年間」とは何だったのか? 如月脩=内藤亮はいったい何を描き続けてきたのか?

 本作はおおむね3部構成と言えるでしょう。事件の顛末を描く第1部、中澤の死と暴露記事をきっかけに調査が進む第2部、そして「空白の3年間」が明らかになる第3部です。

「この作品は絵画がキーになっているんですか?」

 ええ、『存在のすべてを』では写実主義絵画がキーになっています。誘拐された亮は写実主義絵画の、もちろん写実主義という言葉も概念も知りませんでしたが、図抜けた才能を示します。これが「空白の3年間」のあり方を、さらには物語の結末も決定づけるんですよ。また、絵画が重要なヒントとなって調査が進む場面も多々あります。

 しかも亮はただキャラクターの色付け程度に絵画の天才と設定されたわけではありません。亮が絵画の、それも他ならぬ写実主義絵画の天才だからこそ成立した物語です。私はそこに作者・塩田氏の、作品に対する熱意やていねいさを感じました。事実、塩田氏は写実画について非常に入念な取材をしているそうです。

「亮が写実主義絵画の天才だからこそ成立したというのは、例えばどんなところですか?」

 あまり詳しくお話しするとネタバレになってしまうのですが、それを回避できる範囲で言いますと…例えば「空白の3年間」が終わりを迎えた時、亮に多大な影響を与えたある人物がこう語ります。

でも、たとえ会えなくても絵でつながることはできる……画家は孤独を恐れてはダメなんだ。最後は自分との闘いだから。(中略)いっぱい本を読んで、いっぱい人の話を聴いて言葉を知ってほしい。絵を描くときは『何が描きたいか』『なぜ描きたいか』をできるだけ言葉にしなきゃいけない。キャンバスに向かう前から勝負は始まってるから。(P.435)
これから世の中がもっと便利になって、(中略)何でも自分の思い通りになると勘違いする人が増えると思うんだ。だからこそ『存在』が大事なんだ。世界から『存在』が失われていくとき、必ず写実の絵が求められる。それは絵の話だけじゃなくて、考え方、生き方の問題だから。(P.436)

「…人間が生きる上で何が大切か、少年時代の亮に絵画を通じて語ろうとしているみたいですね」

 ええ、まさしくそういう場面です。そう語った彼に応えるように、結末近くで亮はある絵画を前にこう話すんです。

僕が未完成の絵を引き継いで描いてる。(P.453)

 続けて作者はこう語ります。

定年が目に見えるようになってから、門田は「託す幸せ」について考えるようになった。親が子に想いを託し、先輩が後輩に経験を託して社会は前へ進んできた。自らがリングを降りる寂しさや無念は、誰かに託すことでしか消化できない。受け取ってくれる人がいる──その幸せが今の門田には眩しい。(P.454)

託す幸せ…」

 胸に響くものがありますよね。これも作品の重要なテーマかもしれません。

「それ以外ではどんな点がおもしろいと思われましたか?」

 何と言っても魅力的な人物の数々ですね。

門田次郎:ぱっとしないけど一途に事件を追う支局長

 第2部の調査はおおむね彼を中心に進みます。新人時代はいなきゃいけないはずの地域を空けたところへ立花敦之と内藤亮の誘拐事件が起きて上司に怒鳴られたり、意中の女性には振られたり、支局長になればなったで営繕係みたいな仕事に奔走したり、経歴はあまりぱっとしません。

 ですが後述する岸や酒井のような手ごわい人物から信頼を勝ち得るところを見ると、人の懐に飛び込むことには長けているようです。それも口先のテクニックではなく、事件へのひたむきな熱意と長年磨いた観察眼によって。

「新聞記者って、人から情報を得てなんぼの仕事ですよね? そう考えると、門田はかなり優れた記者かもしれませんね」

 私もそう思います。かと思うと長年のガンプラオタクで、それを糸口として中澤洋一と仲良くなるんですが、中澤の妻・みき子から遺品のガンプラを引き取ってくれと頼まれて

「喜んで!」(P.211)

と大はしゃぎで答えるかわいい一面もあります。

中澤洋一:ガンプラオタクの刑事

 彼は事件当時、犯人確保のため身代金を持った木島と連絡を取り合っていましたが確保には至りませんでした。その無念から時効後も事件を追うものの志半ばで病死します。彼は門田から接触されたとき初めはけんもほろろでしたが、どちらもガンプラオタクと分かると急に打ち解け、門田にとって年上の親友となりました。ただ仲良しなだけでなく、こんなことを繰り返し問いかけています。

結局、門ちゃんは何でブンヤやってるの?(P.72など)

「年上の親友として、門田の人生を気にかけていた?」

 私はそう解釈してます。

中澤みき子:面倒見がよくユーモアセンスたっぷり

 門田と中澤洋一がガンプラを糸口に打ち解ける場面で、みき子は

憐れむように目を細め「ごゆっくり」と言って部屋を出た。(P.61)

「まあ、ありそうな話ですね」

 とは言えこれをきっかけに夫婦そろって門田と親しくしています。特にみき子は洋一の死後、門田との再会で

門ちゃんも、そんな立派なスーツ着るようになったんだね。(P.212)

と言ってますので、門田を息子か弟のようにかわいがっていたのではないでしょうか。みき子が登場する場面は少ないですが、門田への思いやりやユーモアがうかがわれて楽しかったです。

藤島光一:門田の飄々とした先輩

 彼は誘拐事件発生直後から門田とペアで警察庁に詰めるんですが、

することがなくなると、一人静かに本を読み、フラッといなくなったと思えば、誰も知らない被害者家族の情報を取ってくる。(中略)大柄だが威圧感はなく、いつも飄々ひょうひょうとしていた。(P.81。ふりがなは原文のまま)

という不思議な人物です。かと思えば、身代金を犯人が受け取りそびれたと発表されると

彼は後輩の視線に気づくと「子どもを帰すメリットがない」と首を振った。(P.90)

と、亮の身が危ないことにいち早く気づく洞察力もあります。あと、藤島の言葉でとても印象に残った言葉があります。

「それは何ですか?」

犯罪者っていうのは、得てしてつまらんもんだよ。(P.177)

 「…それが真理かどうかは分かりませんが、私たちは重大事件の犯人について、やれ生い立ちがどうとか深層心理がどうとか言って複雑な想像をしがちではありますね」

 そうなんですよ。だからこの一言がとても印象に残ったんです。

岸朔之介:若手思いで硬骨漢の画商

 彼についてあまり詳しく触れるとネタバレになりかねないのですが…派閥や学閥が露骨に幅を利かせ、いざとなれば袖の下も平気でやり取りする連中だらけの美術界にありながら彼は才能豊かな新人の育成に一途です。新進気鋭の画家が美術界に愛想をつかして師匠から離れて干された時も、岸は彼の後押しを続けました。岸自身もその件で少なからず煮え湯を飲まされたにかかわらず。
 結局その後押しは実らなかったのですが、それ以降も陰に日向にその画家を支え続けました。

「カッコいいですね」

 でしょう? そして岸は「空白の3年間」でも重要な役割を果たすのですが、これを言っちゃうとネタバレになるんですよね。

「じゃ、お聞きするのは我慢します(笑)」

酒井龍男:懐の深い企業人

「絵画を愛するということでしたが、コレクターですか?」

 そうです。彼は北海道に生まれて倉庫会社に就職、後に他社を吸収合併して物流会社を創業しました。自分が会社を拡大しただけでなく跡継ぎの長男も攻めた経営で成果を上げていますので、親子そろってかなりの辣腕です。

「なにわt4eさんのおっしゃり方だと、経営者として有能なだけでなく非常に魅力的な人物のようですが?」

 はい。包容力があって肚も据わった、とても魅力的な人物ですよ。間接的に亮を援助したり、

しばらくは食えないかもしれないですが、ご主人の絵はかならず高く評価されます。がんばって稼いでください(中略)苦労のない人生は振り返り甲斐がない(P.412)

と若夫婦を激励したり、岸朔之介に勝るとも劣らぬナイスおやじです。
 あと、酒井と門田が物語中盤を過ぎたあたりで対面するのですが、これは作品中で一、二を争う名場面だと思っています。

「と、おっしゃいますと?」

  事件への真剣さを問う酒井、それを受けて決意を新たにする門田。二人の対面は静かな緊張感に満ちています。

「私はきちんと人間を書きたい。(中略)釈迦に説法ですが、私はこう思うんです。人には事情がある、と」
門田が話し終えると、酒井はしばしの黙考を経て「今おっしゃったことは本心ですか?」と尋ねた。門田は背筋を伸ばし、取材対象者の目を見て言った。
「私は人間を書きます」(P.304)

「…何と言ったらいいか分かりませんが、圧倒されますね」

 同感です。他にも書きだすときりがないんですが、例えば土屋里穂も亮の青年時代を彩るだけの存在ではありません。ちょっと向こう見ずな行動に出たり社会で様々な挫折や理不尽を経験する羽目になったり、それでも彼女なりにまっすぐ絵画に向き合う好人物です。
  しっかり描き込まれているのは魅力的な人物たちだけではありません。内藤瞳の描き方も、成育歴こそあまり描かれていませんが感情が枯渇したような無気力さの描写に説得力があります。参考文献として杉山春『ネグレクト 育児放棄──真奈ちゃんはなぜ死んだか』(←Amazonの紹介ページへ飛びます)が挙げられているので、これを相当読み込んだのでしょう。あるいは児童福祉の関係者にもかなり取材をしたか。

「なにわt4eさんは『存在のすべてを』にどんな感想を持たれましたか?」

 本の帯に書かれた「圧巻」だの「別格級」だのという表現は大げさだと思いますが、とても読み応えのある作品です。私は本書を読んで、これは「愛とは何か? 誇りとは何か?」と問う作品だと感じました。とりわけ「空白の3年間」で亮が受けた扱いや、美と真実ではなく金と権力がものをいう美術界において、それでも信念を貫こうとする岸たちの姿に。しかもそれらが薄っぺらなお涙ちょうだいとかスローガンに終わっていないのは、長年かけて真相を追う門田や中澤たちもしっかり描き込まれているからでしょう。彼らの思いや生活などが。これは勝手な想像ですが、塩田氏は根っこのところで人間を信頼している、あるいは信じようとしているのではないでしょうか。

ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』(←本ブログの紹介記事へ飛びます)をご紹介いただいたときも、人間への信頼と言うことをおっしゃってましたね」

 そう言えばそうですね。そういう作品や作家が私は好きなのかな。それはともかく、「空白の3年間」のアイデアは目新しいものではありませんし、土屋里穂が中田という人物に追われるエピソードはいらないんじゃないの? という気がします。そうは思いながらも、「亮たちは何を描いてきたのか?」に門田が出した答え、岸や酒井がそれぞれにつけた落とし前には胸を打たれました。

 作品自体の評価とは関係ありませんが、ジョージ・ウィンストン「あこがれ/愛」という曲が所々で引用されている点もおもしろかったですね。この曲をリアルタイムで聴いていたので。

「へえ、よく聴いておられたんですか?」

 いえ、実はあんまり。凝りかけたものの、私にとっては響きがクールすぎていま一つのめり込めなかったんです。鍵盤奏者なら私は華麗でスケールの大きい厚見玲衣、天を駆けるごとくゴキゲンなビリー・パウエル、オルガンにこだわり過ぎてイエスを解雇されたトニー・ケイの方が好きですね。

「……?」

 すみません、大脱線しました。

 なお塩田氏には、グリコ森永事件に題材をとった『罪の声』(←Amazonの紹介ページへ飛びます)という作品もあります。髙村薫『レディ・ジョーカー』(←本ブログの紹介ページへ飛びます)を意識したのかどうかは分かりませんが、いずれこちらも読んでみたいですね。

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この記事を書いた人

名もなき大阪人、主食は本とマンガとロックです。

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