『レディ・ジョーカー』(髙村薫)人間とは?組織とは?

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先にまとめから

 グリコ森永事件をご存知ですか? 1984~1985年、江崎グリコの社長が誘拐され身代金を要求されたり江崎グリコはじめ森永製菓など多数の食品会社が「製品に毒物を混ぜる」と脅迫されたりした未解決事件です。店頭に並ぶ食品に毒物を混ぜるという脅迫が当時の日本全土を不安の渦に叩き込みました。
 
 この事件を下敷きに、貧困、企業・政界・闇社会の癒着、部落差別など様々なテーマを絡めつつ「人間とは何か? 組織とは何か? 人の一生とは何か?」を問いかける本作『レディ・ジョーカー』は、現代日本における『白鯨』『カラマーゾフの兄弟』です。

※髙村氏は改稿の多いことで知られ、本作も雑誌連載版→ハードカヴァー版→文庫版と改稿を重ねています。この記事は文庫版に基づいて書かれております。ご了承ください。

美濃達夫さんとの会話

(架空の人物・美濃達夫さんから本書について尋ねられた、という想定で書いております)

 『』(←当ブログの紹介記事へ飛びます)、お読みになったそうですね。

「ええ、とてもおもしろかったです」

 ご紹介した甲斐がありましたよ。さて、髙村薫『レディ・ジョーカー』についておたずねですね?

「はい。取引先の方が絶賛されていて、何度もお読みなんだそうで」

 実際、素晴らしい作品ですよ。グリコ森永事件を美濃さんはご存知ですか?

「聞いたことはあります。食品会社が脅迫された未解決事件ですよね」

 そうです。『レディ・ジョーカー』はこの事件にヒントを得ています。

「あらすじを教えてください」

 東北の寒村出身で、ささやかな薬局を営む物井清三。就職を間近に控えたはずの孫・秦野孝之の事故死、長い間互いに音信不通だった兄・岡村清二の死をきっかけに、物井は競馬仲間と手を組み日之出ビールを恐喝します。「人質の命が惜しければ20億円用意しろ」社長の城山恭介を誘拐はするものの、本当の人質は城山ではなく350万キロリットルのビールでした。警察は日之出ビールに大森警察署から合田雄一郎を派遣します。表向きは城山のボディガードとして、実際は犯人グループ「レディ・ジョーカー」との裏取引を阻止するスパイとして。動き出す警察。不穏な臭いを嗅ぎつけた新聞記者たち。うごめく地下金融。日之出ビールと警察を翻弄するレディ・ジョーカー。模倣犯。彼らの行き着いた先は?

「レディ・ジョーカーってどんなメンバーですか?やっぱり凶悪な連中ですか?」

うーん、どうでしょう。彼らの犯罪は凶悪でしたが、人物が凶悪かとなると「はい」とは答えがたいですね。むしろどこにでも転がっていそうな人物ばかりです。レディ・ジョーカーのメンバーは以下の5人です。

物井清三:薬局店主。苦労が満足に報われず生きてきた。レディ・ジョーカーの発起人。
半田修平:刑事。冷や飯食いの立場にウンザリしており、妻とも不仲。警察の目をかいくぐる知恵を授けるアドヴァイザー。
松戸陽吉:町工場の腕利き工員。つかみどころのない人物。レディ・ジョーカーの実行役。
布川淳一:トラック運転手。病身の妻と重い障害のある娘を抱え、生活は破綻寸前。レディ・ジョーカーの名前は彼の娘に由来する。実行役。
高克己:信用金庫に勤める。在日コリアン。企業を脅すノウハウを与える。

 そのほか、以下のような人物が登場します。

合田雄一郎:刑事。元々警視庁に勤めていたが、ある失策で大森警察署に飛ばされた。城山のボディガードに任命される。
加納祐介:東京地検の検事。合田の元義兄で、合田が離婚したのちも何かと面倒を見る。
城山恭介:日之出ビール社長。自分を経営マシンと割り切る人物。
白井誠一:日之出ビール副社長、ビール事業本部長。いわゆる切れ者。
倉田誠吾:日之出ビール副社長、事業開発本部長。総会屋対応を一手に引き受ける。
菅野哲夫:東邦新聞東京本社社会部・警視庁クラブキャップ。広く精度の高い情報網の持ち主。
根来史彰:東邦新聞東京本社社会部・遊軍長。長年裏社会を調査しており、レディ・ジョーカー事件でその核心に迫ろうとしていた。
久保晴久:東邦新聞東京本社社会部・警視庁クラブ記者。先輩である根来に一目置いている。

「『レディ・ジョーカー』は何を描いた作品なんですか?」

 『レディ・ジョーカー』はとにかく情報量が膨大で、「テーマはこれです」と一口で言いにくいんですよ。柱と言えるものだけでもこんなにあります。

・組織と人間の葛藤
・企業・政界・裏社会の癒着
・貧困
・部落差別
・警察という社会
・ジャーナリストたちの興奮、攻防

  ただ、貧しさゆえの鬱屈を抱える物井、刑事としてのあり方と人間としてのあり方の間で葛藤する合田、検事としての自分に迷う加納、経営者として社員の生活と会社を守る責務を負う毎日でいつしか人間らしさを見失っていた城山たちの姿を見ているうちに「人間とは何か?」「巨大な組織の中で人間にはどんな生き方ができるのか?」という問いかけが浮かび上がってきます。

「文庫で3冊とはずいぶん長いですね。クライマックスはどんな場面ですか?」

 レディ・ジョーカーと裏取引を進める城山に、あなたの決断一つで今夜中にレディ・ジョーカーの一人を逮捕できると合田が立ちはだかる場面です。結果として企業の利益を優先させた自分の行動に、城山も迷っています。

その若すぎる一人の刑事の若すぎる挑戦をった自分の判断がはたして正しかったのか。この社会で生き残るために真に有効だったのか、確信がもてないでいることに変わりはなかった。(新潮文庫、以下同じ、中巻P.484。ふりがなは原文のまま)
城山は、自分の前に立ちはだかった若い刑事の顔を何度も思い浮かべながら、相手に戦略がなかった分、自分に向かってきたのはほとんど人間の心の塊のようだったと思った。(P.485)

 一方、あまりにストレートな手段に訴えて裏取引の阻止に失敗した合田はおのれをこう振り返ります。

職務規定違反は目に見える穴。単純な能力不足は目に見えない穴。どちらも組織をむしばむことに変わりはない。(中略)俺はまだ、油さえさせば使えるロボットか、と思った。(中巻P.480)

「…油さえさせば使えるロボットとは、身につまされる言葉ですね」

 そういう身につまされるフレーズが本作にはとても多いです。挙げればきりがないくらい。そして合田の行動を一度は拒否した城山が後から彼に報いるのですが、これも名場面です。

「そもそも、なぜ日之出ビールを強請ったんですか?」

  ネタバレの恐れがあるので詳細は控えますが、日之出ビールを強請る物井の決意に部落差別が深くかかわっています。

そのとき物井は、いまや骸と化した一人の男を眺めながら、どこから湧いてきたのか分からない言い知れぬ感情の渦の中にいた。(中略)その中から〈人間なんてこの程度のものだ〉〈これが明日のお前だ〉といった自分の声が聞こえ、そのざわめきがやがて退いてゆくと、代わりに降りてきた放心の隣で、物井は、今度は〈清二さん、仇を討ってやるぞ〉という別の声を聞いた。(上巻P.266~267)

〈清二さん、仇を討ってやるぞ〉という声を作者は「半世紀前に一度だけ姿を現した悪鬼の声」(上巻P.267)と呼びます。この悪鬼に突き動かされて物井は日之出ビール恐喝を決意しました。この悪鬼は要所要所で姿を現し、物井を、ひいては物語を突き動かしています。 ただ本作は部落差別を声高に糾弾するわけではなく、もちろん擁護するわけでもなく、差別されるものの心情をきわめて丁寧に掘り下げています。

「結末を教えてください。もちろんネタバレにならない範囲で」

 恐喝された企業側はもちろんのこと警察も、新聞記者も、レディ・ジョーカー自身も、誰一人幸せにはなりませんでした。

「辛いなあ……」
物井は自分自身と、レディと、布川夫婦と、自分たちが生きているこの時代の全部の人間に向かって、そう呟いてみた。(中略)辛かったことはみんな、自分の力ではどうにもならなかったことだったと思うと、自分の代わりに、腹のなかの悪鬼が声にならない声をあげて慟哭した。(下巻P.375)

 ここだけ読んでも「なんのこっちゃ」なんですが、長い物語の終盤でこの一節にぶつかると物井の「辛いなあ……」が腹の底まで響きます。自殺した者、殺された者、行方不明になった者、地位を失った者。犯人グループを含め、誰も幸せにならなかった物語。ですが最後にジャーナリストの久保が、物井はじめレディ・ジョーカー事件にかかわったすべての人間の思いをすくい上げています。もし神がいるとしたら、事件の関係者すべての思いを、久保は自分で気づかぬうちに神に伝えてやっていたのではないか。私はここにわずかな救済を感じました。

「なにわt4eさんは『レディ・ジョーカー』を読んでどう思われましたか?」

 情報量の膨大さと人間観察の深さはすさまじいものがあります。もし現代にドストエフスキーやハーマン・メルヴィルが生きていたら、彼らはこんな小説を書いたことでしょう。しかし『レディ・ジョーカー』は読者を圧倒するのではなく、むしろ読者一人一人の悩みに寄り添ってくれます。悩みを解決なんかしてくれない、でも一緒に悩んでくれる。そんな作品だと、私は思います。

 しかしいくら大傑作とは言え、こんな辛気臭い作品がよくベストセラーになったなあ…あ、でも美濃さんもぜひいつか読んでみてくださいね。長くて辛気臭いですが決して読みにくい文体ではありませんし、何よりムチャクチャおもしろいですから!

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この記事を書いた人

名もなき大阪人、主食は本とマンガとロックです。

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