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(架空の人物・美濃達夫さんに本書をご紹介する、という設定で書いております)
「なにわt4eさん、アーミッシュってご存知ですか?」
ああ、キリスト教の一派ですよね。詳しいわけではありませんが、多少本で読んだことはあります。
「取引先の方が以前アーミッシュに関する本を読まれたことがあるそうで、こんなことをおっしゃってました」
何とおっしゃったんですか?
「その本や『教誨師』(←当ブログの紹介記事へ飛びます)を読んで、犯罪に対して厳罰が望ましいのか赦しが望ましいのか分からなくなった、と」
確かに、たやすく一刀両断できるテーマではありませんね。
「厳罰と赦しのどちらが望ましいかはともかく、その本は何という本か分かりますか?」
あくまで推測ですが、『アーミッシュの赦し』ではないでしょうか。罪にはどう臨むべきか、果たして厳罰以外の選択肢はあるのかを考えたい方には一読の価値がある本です。
「どんな本ですか?」
アーミッシュの集落で起きたある事件のルポルタージュです。2006年10月2日に、アメリカ・ペンシルベニア州ランカスター郡ニッケル・マインズ地区にあるアーミッシュの集落で、その集落の住民であるチャールズ・カール・ロバーツ四世がアーミッシュ学校に乗り込み散弾銃を乱射して自殺しました。ロバーツ以外に、つまり被害者の側に5人の死者と5人の重傷者が出ています。この事件も衝撃的でしたが同じくらい、またはそれ以上に衝撃的だったことは、ご遺族を含む集落の住民たちがロバーツと彼の残された家族を赦したことです。言葉や気持ちの上で赦したにとどまらず、事件で亡くなった子どもの遺族がロバーツの遺族を葬儀に招待したり、反対にロバーツの葬儀に参列したり、大勢の住民が金銭的な支援をしたり。『アーミッシュの赦し』は事件そのものの経緯や犯人像はもちろんのこと、被害者遺族を含めた集落の住民がなぜロバーツを赦したのか・その背景には何があったのか・この赦しに対してどのような反響があったか・そもそもアーミッシュとは何かなどを考察した本です。
「アーミッシュとは何ですか?キリスト教の一派ということでしたが」
この本を含む情報源から私が知った範囲で言えばですが、イエス・キリストの教えを忠実に守ろうとする、プロテスタントの一派です。ですのでイエスが説く赦しの教えにも忠実であろうとするわけです。また人前でのスピーチのように自分が目立つ行いをよくないものとしていますが、それもイエスの謙遜の教えを守るためでしょう。テクノロジーの導入には極めて慎重です。どうしても必要な場合のみ、自分たちに合わせた形で導入します。例えば電気はこんな風に。
彼らは都市電気の使用を禁じている。(中略)電線を家庭に引くことが一般社会との直結を暗示することになるからである。
しかし、彼らには大型、小型を問わずバッテリーを使うことは認められている。(中略)バッテリーは一般社会と直結することはないと考えているからである。(池田智『アーミッシュの人びと』二玄社、P.189)
テクノロジーによる外部との多大な交流がイエスの教えや聖書の時代にならう暮らし方から自分たちを引き離してしまうと考えているようです。これらの特徴からアーミッシュは浮世離れしている・外の社会や政治とかかわることを拒否していると思われやすいですが、外部社会と一定のかかわりを持っています。税金は払っていますしアーミッシュの集落外で、例えば工場で働くアーミッシュもいます。また、アーミッシュの中にもいくつか会派があり会派によって程度の違いはある、と聞きました。 じゃあアーミッシュと他のクリスチャンは何が違うんだ?となると、『アーミッシュの赦し』にある以下の記述が答えになるかもしれません。
アーミッシュの母体であるアナバプテストは、多くの学者によれば「弟子の道(discipleship)を重んじる宗派の一つに分類される。(中略)無論、他のキリスト教の宗派もイエスの生涯と手本を重く見るが、イエスの弟子となることが信仰の本質とは考えない。(中略)しかしアナバプテストにとり、信仰の表現として最も大事なことは、イエスに従う━というより、倣う━ことなのだ」(P.139)
アーミッシュはイエスにならって行動することを重視する、と私は解釈しています。虐待や人間関係のトラブル、教会関係者の横暴などの問題はアーミッシュにもあります 。ただ『アーミッシュの赦し』で読む限り、そうした問題を抱えながらもアーミッシュはおおむね安定した社会を作っていて、人口も増え続けています。
「そのアーミッシュはどうして銃乱射の犯人やその遺族を赦したんでしょうね?」
下手に私があれこれ言うより、本書から数か所読んでいただく方が間違いないでしょう。
「なぜ驚くのです?」とあるアーミッシュの男性が言った。「ごく普通のキリスト教の赦しなのに。誰もがすべきことでしょう」(P.85)
アーミッシュの話、説教、文章に繰り返し現れる決定的なフレーズは、こういうものである。
〈赦されるためには、赦さなければならない〉(P.154)
彼らにとっても赦しは容易なことじゃありません。当然ながら彼らも人間ですからね。事実、第九章「赦しの実践」には赦すことの難しさや赦そうとするが故の葛藤が彼ら自身の言葉で語られています。 また誤解してはならないのは、アーミッシュは赦すからと言って司法や警察を否定してはいないことです。
アーミッシュは、悪事にはその報い、しばしば州や国が定める罰が伴うことを承知している。しかし彼らは、現世の裁判を復讐に利用するようなことは固く戒める。(P.126)
「色々反響があったのではないですか?」
もちろん賛否様々な反響がありました。
しかし、あの事件の後、アーミッシュを冷笑するような人は実際にはほとんどいなかった。むしろ事件直後の論説や論評の大多数は、赦しの行為への驚嘆、それを実行したアーミッシュへの称賛、彼らの生活に非常に好意的な意見、米国で主流になっている生活のありように対する嘆きの四つに分類できた。(P.96)
アーミッシュの赦しが絶賛されていた時期、声は小さいが頑強な反論もあった。(中略)「我々のなかに、子供が虐殺されたのに誰も怒らないような社会に住みたいと本気で思っている者が、どれだけいるだろう?」(引用者注・米コラムニスト、ジェフ・ジャコビー。P.97~98)
そんな風に反応が分かれるのはむしろ当然でしょう。「罪と赦し」はそうそうたやすく結論を出せる問題ではありませんから。
「この本について、あるいはアーミッシュについて、なにわt4eさんのご感想は?」
私も銃乱射事件の犯人を、しかも被害者のご遺族や彼らのコミュニティが赦したことにとても驚きました。彼らの信条や決断には心から敬意を表します。アーミッシュの赦しを私たちの社会にそのまま持ち込むことが果たして可能か、あるいは持ち込んでよいのか、それは軽々しく断定はできないことです。しかし「赦すという選択肢を人間はとることができる」これが事実であることを彼らは証明していますし、『アーミッシュの赦し』を読んだ後の私がこの事実を忘れることはできないでしょう。 一方、アーミッシュが人間離れした献身の心を持っているとか、無条件に尊敬すべきだとか、そうは思いません。そんな風に考えるなら、むしろそれは彼らの尊厳を踏みにじることになるでしょうね。
いまだ曖昧なまま残されているのは、アーミッシュの赦しは私たちが倣うべきものなのか、それとも、気高いが実行不能な理想に過ぎないのか、という問題である。
答えはおそらく、この中間のどこかにある。(P.278)
その通りだと私も思います。そしてその中間のどこかにあるであろう答えを私たちは探り続けなければならないのだと。
まとめ
現在、日本は大体どんな犯罪に対しても厳罰化の方向に進んでいます。そんな日本人がニッケル・マインズの事件を知ったら「偽善」「特殊な例」と切り捨てるかもしれません。事件当時のアメリカでもそうした声は一定数あったのだから当然です。私も私で、アーミッシュの赦しを無条件に見習うべきだとは思いません。ただ、人間にはこんな可能性があるということを無視していいとも思いません。冒頭の繰り返しになりますが、罪にはどう臨むべきか、果たして厳罰以外の選択肢はあるのかを考えたい方には一読の価値がある本です。
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