洋書チャレンジ! Midge Ure ‘IF I WAS…’編 パート4

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 こんにちは。なにわt4eです。洋書チャレンジ、4回目となりました。今回は第4章・第5章。ミッジ・ユーロがいよいよスリックのシンガー兼ギタリストとしてデビューを飾ります。

※お断り  洋書チャレンジの記事において、引用文は特に断りがない限り全て私の訳です。

目次

売れはしたものの…

 当時の有名な音楽番組トップ・オヴ・ザ・ポップスに出演したことでスリックのファーストシングル「フォーエヴァー・アンド・エヴァー」は売れ行き好調、なんとアバの「マンマ・ミーア」からUKチャート1位の座を奪いました。ちなみに「マンマ・ミーア」の前に9週連続1位を記録したのが伝説の名曲、クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」。しかしプロデューサーのビル・マーティンから連絡を受けたミッジ・ユーロは?

ビル・マーティンから電話でそれを聞いたとき、有頂天になってもよさそうなものだったがそんな気になれなかった。私の心はその曲から遠く離れていたのだ──ヒットはしたけど私が作った曲じゃない、ただ曲に合わせて歌っただけだ。(P.33)

 第2のベイ・シティ・ローラーズ的な立場で、他愛ないポップスをあてがわれることに不満を抱いていたミッジ・ユーロの本心でした。確かに「フォーエヴァー・アンド・エヴァー」を聴いてみると、イントロこそ宗教音楽風のパイプオルガンやチャイムが強調されてユニークですが、ギタリストでありたい・音楽家でありたいという志向を強く抱いていたミッジ・ユーロは満足しがたいだろうと想像できます。
 そのためか、ラブラブハッピーな「フォーエヴァー・アンド・エヴァー」に対してセカンドシングル「レクイエム」はアイドル路線に変わりはないもののギターソロが入れられ曲も少しひねりを感じるものとなり、歌詞も対照的にシリアス。このへんはビル・マーティンと共同プロデュースを行っていたフィル・コウルターの意向のようです。

フィル・コウルターが私たちをれっきとしたバンドと認識してくれた時がターニングポイントとなった。ビル・マーティンは私たちが演奏できようができなかろうが気に留めなかったが、フィルは音楽性を重視していた。(中略)フィルはバブルガムポップ(引用者注:主にローティーン向けの売れ線ポップス)を書くのを止め、私たちの資質にふさわしいと判断した曲を提供しようとしてくれた。(P.37)

 しかしそのシリアスさのせいか、パンクロックの誕生前夜というタイミングのせいか、「レクイエム」でスリックの人気は下降線をたどりました。そしてパンク調のサードシングル「ザ・キッズ・ア・パンク」でミッジ・ユーロは堪忍袋の緒が切れました。ミッジ・ユーロは後に元セックス・ピストルズのグレン・マトロックとリッチ・キッズを結成してパンクをやっているので、推測ですが分かりもせずにパンクっぽいことをやらせるレコード会社に激怒したのかもしれません。メンバーの結婚なども作用して、ミッジ・ユーロ23歳、スリックは解散に至ります。

次なるバンド、リッチ・キッズ

 先に述べたグレン・マトロックの友人アル・マクドゥーウェルからミッジ・ユーロに連絡があり、リッチ・キッズが結成されました。音楽雑誌メロディ・メイカーの記者キャロライン・クーンがスリックのショウを観ていたく気に入り、グレン・マトロックに「あなたのバンドにピッタリのフロントマン(引用者注:バンドの顔となるメンバー。たいていはシンガーがこれ)がいるよ」と知らせたのです(P.41)。おもしろかったのが以下の一節。

イギリスの音楽雑誌がパンクに初めて言及したのはスリックに関する記事の文中だった。(同上)

 他のメンバーとともにホープ・アンド・アンカーというパブへ行き、ギタリストがアンディ・サマーズに交代する前のポリスがトリを務めるショウを観たとの記述もあります(同上)。そのころのポリスはまだパンク色が強かった時期なので、これからパンクをやろうというミッジ・ユーロには特に興味深かったのではないでしょうか。そしてリッチ・キッズはデビューアルバム『王子の幻影』が全英51位と好成績を残しますが「あんなのはパンクじゃない、パンクの骨抜きだ」と感じた者もいたらしく、ある夜バーバレラで行われたショウでは彼らがバンドを襲いました。ところで、私もそうですがデュラン・デュランのファンならこのバーバレラという名前に思わずニヤリとしたのでは? ともあれそうしたことが度重なり、加えてギターのスティーヴ・ニューのドラッグ問題や音楽的な意見の相違などもあってリッチ・キッズは解散します。

バンドは機能していなかったが彼(引用者注:グレン・マトロック)は全てを注ぎ込んでいた。私たち全員がそうだった。彼にとってはピストルズより大きな存在になるはずだったのに、砕け散ってしまった。(P.48)

 グレン・マトロックの無念に心を痛めるミッジ・ユーロの胸中が思われ、私もここを読むと胸が痛みます。また彼はこうも書いています。

ラスティ(引用者注:ドラムのラスティ・イーガン)と私はヨーロッパから生まれた電子音楽を聴いていた──ドイツのクラフトワーク、ラ・デュッセルドルフ、カン、ベルギーのテレックスだ。その数年聴いた中で最もエキサイティングな音楽だった。この電子音が私に向かって叫んでいた、私が10歳のころギターがそうだったように。(P.48~49)

 このあたりにもミッジ・ユーロの新しい物好きがうかがわれます。時代への嗅覚と言ってもいいでしょう。事実、時代はパンクからニューウェイヴへ。再び大きな変化が当時のミュージック・シーンを席巻します。

 次の第5回もご期待ください!

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この記事を書いた人

名もなき大阪人、主食は本とマンガとロックです。

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