先にまとめから
いわゆる名作、特に海外文学の名作には
・誰もが絶賛してる、だけど難しそう
・すごくいい作品みたい、だけど長い
そんな「ハードルの高い名作」がたくさんありますね。本作『罪と罰』はその代表でしょう。
だいじょうぶ! ちょっとの工夫や読み方のコツでハードルは劇的に低くできます。
そもそも、おもしろいからこそ名作。『罪と罰』はサスペンスありロマンスありスカッと話あり、そのくせ生きる理由とか罪と赦しとかのハードな悩みにも対応可能。とってもおトクな名作なのです!
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美濃達夫さんとの会話
「なにわt4eさん、やっぱり読書する人っていわゆる名作は一通り読んでるものですか?」
人にもよるでしょうけど、けっこう読んでなかったりしますよ。私も、全人類へのプレゼントとさえ呼ばれるトーマス・マン『魔の山』やイギリス文学古典中の古典であるミルトン『失楽園』、風刺文学の傑作とされる夏目漱石『吾輩は猫である』など読んでない名作は山ほどあります。
「ドストエフスキーの『罪と罰』は読まれましたか?」
ああ、それなら読みました。
「私でもタイトルだけは知ってるくらいですから、取引先の方も読んでおられるんじゃないかと思ったんです」
読んでおられるかもしれませんね。ただ、「名作なんだろうけど長いし難しそう」というハードルが高いんですよね。
「そうなんですよ!」
なにわt4e流・ドストエフスキー攻略法
「聞くところではいろいろ盛りだくさんの作品みたいで、私もかなりハードルが高いと感じるんですよ」
ええ、実は私にとってもそうです。ただ、いくつかの工夫やコツでかなり読みやすくできました。
「どんな工夫ですか?」
各キャラクターが初登場する場面で線を引く
私はよく「こいつ誰だっけ?」「こいつとこいつはどういう関係だったかな?」と言うことを忘れて話が分からなくなるので、各キャラクターが初登場する場面では人物名と説明に線を引きました。
インターネットなどの情報を参考にする
幸い今はたいていの作品や作家についてインターネットで情報を拾えるので、人物同士の相関図などを見ながら読むこともできます。線を引いてインターネットの情報を参照しながら読むとかなり読みやすくなりました。
1人の人物に何通りもの呼び方があることを頭に入れる
これはロシア文学あるあるの一つで、尊敬を込めた呼び方と親友同士の呼び方とか、いろいろな呼び方をするんです。日本語に例えれば、仮に田中一郎という名前なら「田中様」「田中さん」「田中」「ターさん」「いっちゃん」「いちやん」「いっちー」と言った具合で。
「めまいがしますね…」
これは覚悟を決めて覚えるか、メモするかですね。私は本にメモしました。
できるだけ短期決戦で読む
長い話をだらだら長期間かけて読むと中盤を読むころに「序盤の内容を忘れた!」なんてことになりやすいので、記憶が鮮明なうちに急いで読み切るのも有効です。
わかりやすく変換する
「どういうことですか?」
「こいつは今風に言えばヤンデレ(※)だな」とか、「この話って要は三角関係がこじれる話だな」という風に自分にとってわかりやすい言葉や概念に変換するんです。ある程度理解してないとできないのがこの対策の難点ですが、これができると一見とっつきにくい作品でもぐっと理解が増しますよ。ただ、やりすぎると今度はとんちんかんな思い込みで読んでしまいがちという難点もあります。
※ヤンデレ…愛が高じて異常な行動に走ること、またはそういうキャラクター。
悩んでるときに読む
ドストエフスキーの5大長編を読むにあたってはこれが究極の奥義かもしれません。「神は地上の悲惨をなぜ防がないのか」だの「罪をどう償うのか」だの「本当に心が美しい人間は生きていけるのか」だのと重量級のテーマがてんこ盛りなので、いっそのこと自分が何かで深く悩んでいるときに読むと共感でのめりこむ可能性はあると思います。
「だからと言って、さすがにドストエフスキーを理解するためにわざわざ悩みたいわけでは…」
そうですよね。まあ、いざとなったらと言う程度にお考え下さい。では、この辺であらすじからお話ししましょう。
あらすじ
大学生ラスコーリニコフは帝政ロシア華やかなりし時代のペテルブルクに暮らしていましたが、学費を払えず大学を追い出されました。彼は一発逆転を狙って金貸しの老婆アリョーナとたまたま彼女を訪ねたアリョーナの妹リザヴェータを殺害、金品を奪います。ところが犯行直後からラスコーリニコフは、たびたび気を失うほどの良心の呵責や罪のプレッシャーなどに悩まされます。親友ラズミーヒンが面倒を見たり母プリヘーリヤと妹ドゥーニャが心配したりするものの彼の状態は安定しません。家族思いの娼婦ソーニャとの出会い、妹に求婚するルージンの出現、ラスコーリニコフを疑う予審判事ポルフィーリィとの薄氷を踏む駆け引きなどの末、おのれの思い上がりと浅はかさを痛感し罪の意識が限界に達したラスコーリニコフは…。
『罪と罰』に限らずドストエフスキーの長編には「無数の小さな物語が本筋に絡む」という特徴がありまして、そこを紹介し始めるときりがありません。ごく大ざっぱに本筋だけ拾えば今お話ししたようなストーリーです。
キャラクター紹介
「キャラクターについてお聞きした方がよさそうですね」
私もそう思います。ですので主要なキャラクターをご紹介していきますが、ここに挙げた以外にもアクの強いキャラクターがてんこ盛りですよ。
ラスコーリニコフ:中二病炸裂の貧乏学生
彼は安アパートに住み時々アリョーナに質草を二束三文で預けていました。そんな生活で何かをこじらせたのか、自分をナポレオンになぞらえて「小さな悪事は大きな善行でチャラになる」「大きな目的のためなら超人は凡人を殺していい」と考えるに至ります。今だったら中二病扱いですね。
「貧乏から抜け出す手段を選ばない言い訳に聞こえますが…」
そういう側面もあるかもしれません。ともかくそれを実行に移してアリョーナを殺し、たまたま現場に出くわしたリザヴェータも殺害します。ただでさえ人を殺した上に予定外の相手まで殺したものだから、罪悪感や犯行がばれる恐怖などで憔悴します。ただ、後述するソーニャの家族に金を渡したり火事場から子どもを助け出したりもしているので、それなりに善良な面もうかがわれます。
プリヘーリヤ:あぶなっかしいけど優しい母親
ラスコーリニコフとドゥーニャの母親です。ドゥーニャとろくでなしの成金ルージンの婚約に一度は賛同したり彼の弁に気おされたり、少々頼りない面はあるものの愛情深い母親ではあります。また、金の力を振りかざして自分とドゥーニャを支配しようとするルージンに
どんな権利があって娘にそんな口をお利きになるんです!(中略)出て行っていただきましょう、もう二度と来ないでください!(岩波文庫、以下同じ、中巻P.238)
と啖呵を切るだけの強さはあります。
アヴドーチャ(ドゥーニャ):しっかり者で美人の妹
ラスコーリニコフの妹です。しっかり者で美人で妹で、となるとアキバ系の人にとっては萌え心をくすぐる要素の詰め合わせと言える人物ではないでしょうか? 実際、一家の経済的安定を考えて一度はルージンと婚約しつつも彼の傲慢さを指摘して自分の方から婚約破棄したり、兄の犯行をネタに結婚もしくは肉体関係を迫るスヴィドリガイロフをピストルで追い返したり、芯の強い女性です。後述するラズミーヒンと結婚するあたり、人を見る目もありそうです。スヴィドリガイロフから兄の犯行を知らされて動揺しますが、兄を受け入れ続けました。
ラスコーリニコフから犯行を告白され、その後別れる場面です。
ドゥーニャはつらい気持ちだった。しかし彼女は兄を愛していた! 彼女は歩き出した。しかし、五十歩ほど行ったところで、もう一度ふり返って兄を見やった。(下巻P.348)
「兄への愛情がうかがわれますね。ちょっと胸が痛くなります」
ソーニャ:貧しいが謙虚で気高い娼婦
ひょんなことからラスコーリニコフと知り合う彼女は本作第二の主人公と言っていいでしょう。
「重要な役回りを演じている、ということですか?」
その通りです。飲んだくれ親父のせいですってんてんになった一家を支えるべく彼女は、知人にそそのかされた母の差し金もあって娼婦になります。現代でも都会のど真ん中で若い女性が一家の大黒柱になるのは容易ではありませんが、この時代はよほどの幸運か図抜けた才能がなければ売春くらいしかそのための選択肢はなかったのでしょう。 そんな彼女ですがミラクルと言っていいくらいすれたところがありません。だからこそラスコーリニコフが真人間へ戻るための導き手になることができたのでしょう。
事実、ソーニャと何度か会う内にラスコーリニコフは彼女の人間性にうたれてこう叫びます。
ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ。(中巻、P.275)
「どういう意味ですか?」
これは私の解釈です。まず作品の背景にキリスト教がありますが、キリスト教には「イエスは全人類の苦しみや罪を自分が背負うために十字架にかかった」という教えがあります。ラスコーリニコフはソーニャと自分を十字架上のイエスにだぶらせたのではないでしょうか。
「ずいぶんと壮大な話ですね…人を殺した良心の呵責や体を売る悩みはそれくらい重い、ということでしょうか」
少なくともラスコーリニコフにとってはそうだったのだと思います。
ラズミーヒン:行動力バツグンの陽キャ
気絶したラスコーリニコフを介抱するわ、人手に渡りそうになったプリヘーリヤからの仕送りを取り返してラスコーリニコフに届けるわ、行動力いっぱいで友人思い、そして陽気でおしゃべり。今で言う陽キャです。気難しいラスコーリニコフを友人として大切にする唯一の男、というだけでもラズミーヒンの人徳がうかがわれますよ。
「先ほどラズミーヒンはドゥーニャと結婚したとおっしゃいましたね。そういうラズミーヒンのいい奴っぷりにドゥーニャは惚れたんでしょうか?」
ラズミーヒンの側がドゥーニャに一目惚れしたんです。もっとも、それを受け入れたわけだからドゥーニャもラズミーヒンのいい奴っぷりには惚れてたでしょうけど。結婚以降も二人でラスコーリニコフを見守っていますから、本当に友情に厚い人物ですよ。
「ラスコーリニコフとラズミーヒンのどちらと友達になりたいかというアンケートをとったら、10人中9人はラズミーヒンと答えそうですね」
ははは、それなら私も9人のうちの1人です。
ルージン:マウント取りの最低野郎
弁護士として成功しているのでそれなりに実力はあるんでしょうが、一言で言って最低野郎です。彼はドゥーニャにプロポーズしますが彼女の人間性を愛したわけではなく、自分が上に立って支配できる相手として狙っただけでした。
品行がよくて貧乏な(ぜったいに貧乏でなければいけない)、(中略)彼だけに服従し、彼ひとりだけを賛嘆のまなざしで見つめているような娘を、わくわくしながら思いえがいていた。(中巻、P.243)
「それを見抜かれて婚約破棄された?」
そうです。しかも腹いせに、ラスコーリニコフと親しいソーニャにコソ泥の濡れ衣さえ着せました。ラスコーリニコフは当初から彼と妹の婚約に反対していて、ルージンと犬猿の仲だったから嫌がらせのターゲットにしたんです。
「ずいぶん陰険な奴ですね。その目論見はどうなりました?」
ラスコーリニコフと、自分の友人であるはずのレベジャードニコフに話の矛盾を人前で指摘されてすごすごと尻尾を巻いて逃げました。
「まあ自業自得ですね」
まったくです。
スヴィドリガイロフ:弱みにつけ込むセクハラオヤジ
彼も最低度合いではルージンに引けを取りません。ドゥーニャは彼の家で家庭教師をしていましたが、既婚者のくせにスヴィドリガイロフはドゥーニャに手を出そうと試みます。幸いそれは失敗するのですが、それを彼の妻はドゥーニャから声をかけたと誤解します。彼が妻に白状したことで誤解は解けたんですがね。
で、後にスヴィドリガイロフはラスコーリニコフがソーニャに自分の犯行を打ち明けるのを壁一枚挟んだ隣で立ち聞きします。これをちらつかせて彼はドゥーニャに結婚もしくは肉体関係を迫りました。しかし先ほどお話ししたように、彼のたくらみは失敗して追い返されます。
「モラハラのルージンにセクハラのスヴィドリガイロフ、最低度合いはいい勝負ですね」
読みながら私もそう思いました。
感想
「なにわt4eさんは本作を読んでどう思われましたか?」
自分なりに作品を理解したうえでこのラストを読んだ時の感動は並大抵のものではありませんでした。
しかし、ここにはすでに新しい物語がはじまっている。(中略)それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。(下巻P.404)
ソーニャの人柄に心を打たれてラスコーリニコフは更生に踏み出しました。その道のりが一筋縄ではいかないことはドストエフスキーもきちっと書いています。しかしそこにはソーニャがいて、ドゥーニャがいて、ラズミーヒンがいる。いろいろな意味で人間としての人生から転げ落ちそうになった人物が、おのれの罪から逃げることなく罰を受け、再び人間としての人生を歩き始める。その様子を『罪と罰』は実に複雑に、厚みを持たせて描いています。
ただ、「犯人が更生すればそれでいいのか? 殺された人間やその遺族の立場はどうなんだ?」という疑問もあります。その点は描かれていません。この問いに対する答えをドストエフスキーは「地上には悲惨な出来事が無数にあるのに、神様とやらは何をしてるんだ?」という問いへの答えとして『カラマーゾフの兄弟』で書いているような気がします。
岩波文庫の上巻、表紙の折り返し部分には「世界文学に新しいページをひらいた傑作」と書かれています。読めば読むほどその言葉にうなずけるようになる気がしてならないのです。
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