『八甲田山死の彷徨』(新田次郎)「天はわれ等を見放した」

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(架空の人物・美濃達夫さんに本書をご紹介する、という設定で書いております)

「なにわt4eさん、毎日本当に暑いですね」

 まったく、私が20代のころには考えられなかった天候ですよ。

「少しでも涼しくなれるような本ってありませんか?怪談とは言いませんが、例えば涼しい場所をテーマにした本とか」

 そうですね…涼しいなどという生易しいものではありませんが、心当たりはあります。新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』です。

「物々しいタイトルですね」

 お察しの通り、決してハッピーな小説ではありません。ですが読み始めると心をわしづかみにされますよ。

※お断り
 現実の事件を描いているという理由もあり、本作のご紹介にはネタバレが避けられません。結末が分かったくらいで魅力が半減するような作品ではありませんが、どうしても結末を知りたくない方はここから先の閲覧をお控えください。

目次

「すごくおもしろそうですね。どんな本ですか?」

 世界の山岳史で最大級の事故と呼ばれる「八甲田山雪中行軍遭難事件」を描いた小説です。人名は創作されていますが、内容はノンフィクションに近いです。日露戦争を控えた旧日本軍では、雪中行動の研究として青森の八甲田山を厳寒期に横断するという行軍訓練が計画されました。これに臨むは福島大尉率いる弘前歩兵第三十一聯隊と、神成大尉率いる青森歩兵第五聯隊。第三十一聯隊は38名全員が無事生還しますが第五聯隊は210名中199名が死亡…という事件です。なお小説中では福島大尉は徳島大尉、神成大尉は神田大尉となっています。

「何が明暗を分けたんですか?同じところを歩いて結果は正反対だなんて」

 いくつかありますが、主な要因と考えられるものを挙げてみます。

 ・第三十一聯隊:宿や雪中の案内など民間人の助けを借りる。少数精鋭。指揮系統の統一。気象条件がわずかに良かった。
 ・第五聯隊:民間人の助けを一切借りない。大所帯。指揮系統が混乱。気象条件が最悪のタイミング。  

 また末尾近くで語られることですが第五聯隊の生存率は准士官以上の5分の1に対して兵卒で31分の1と、階級が低いほど生存率も低く(P.315。以下、断りがなければ引用は『八甲田山死の彷徨』より)、格差が明らかに存在していることも見逃せないでしょう。新田氏は遭難者墓地を訪れていますが、記念碑の扱いにも階級差があることに触れてこう書いています。

死しても階級の差は厳然として示され、近づきがたいものを感じた。(P.322)

  もともと新田氏は無名時代に同じ事故を題材に短編「八甲田山」を書いていて、これは直木賞受賞後に短編集『強力伝・孤島』(←Amazonの紹介ページへ飛びます)に収録という形で発表されています。『八甲田山死の彷徨』はその「八甲田山」を長編に書き直したものだそうです。(新田次郎『小説に書けなかった自伝』P.196~197)

「どんなところが魅力ですか?」

 何と言っても息詰まる雪地獄の描写です。雪がドサァー、暴風がゴォーと言う単純な描写ではなく、どちらかと言うと猛吹雪のため人間が正常な判断力を次第に失っていく様子に力を入れて描いているのでなおさら恐ろしさが伝わってきます。例えばこんな風に。

全員が茫然ぼうぜん自失していた。その夜死についた者は二十名であったが、それまでのように、暴れまわったり、狂声を張り上げたりはしなかった。力尽きた者は、他の隊員たちの足下にうずくまり、眠ったままあの世へ旅立っていった。(P.203、ふりがなは原文のまま。以下引用文について同じ)

 文体の魅力もおおいにありますね。新田氏は作家になる以前は気象台職員で、その当時から文章にうるさかったそうですが(『小説に書けなかった自伝』P.51~52)、それだけに文章には無駄がなくキビキビしていてとても緊張感があるんです。 次におもしろいのは、旧日本軍の人間関係や風土への批判的な視線です。

競争しろと、上から命令を出せば、やれ装備が不足だ、予算がないとみつかれるから、聯隊自体の責任においてやれと言っているのです。(中略)どうもわが軍の首脳部には、物象を無視して、精神主義だけに片寄ろうとする傾向がある。危険だ。極めて危険なことだ。(P.21)
自分は陸軍教導団出であります、士官学校出ではありませんと、自らを卑下した言い方をした神田大尉の劣等感が、なにかのわざわいにならねばよいがと思った。私は平民ですと言った階級意識が、ほとんどの将校が士族出身者である、この軍人社会の極限点で、ゆがんだ形で現れなければいいがと思っていた。(P.228)

「ずいぶん辛辣ですね。登場人物のセリフですか?」

 はい。どちらも徳島大尉の言葉です。上層部のいいかげんさ、学歴やキャリアによる階級意識…今の日本社会にもそのまま当てはまる気がしませんか?

「全くですね、笑い話にもならないくらい」

私はこの二つの聯隊の生と死の対比、成功と失敗の比較というよりも、この事件の奥深く隠された日露戦争直前の日本陸軍の首脳部に思いをはせた。(『小説に書けなかった自伝』P.197)

 新田氏がのちにそう書いたように、雪地獄のみならず旧日本軍の描写にも非常に力が入っています。そこも本作の大きな読みどころです。
 次に挙げたい本作の魅力は、いきいきとした人物造形・人間観察です。部下思いで洞察力もあるがキャリア面で劣等感を抱く神田大尉と、先見の明があり民間人にやさしいものの雪中を案内してくれた村人には何故か薄情な徳島大尉はもちろんのこと、傲慢で出しゃばりな山田少佐、この行軍が今生の別れになってしまった斎藤吉之助と長谷部善次郎の兄弟、一人目の案内人となったさわ女…厳しくも敬意に満ちた新田氏の人間観察が面目躍如です。おまけにこの作品はリーダーシップ論、あるいは組織論として読んでも大変おもしろいんですよ。事実、企業の研修で使われることさえあります。

「リーダーシップ論に組織論?ビジネス書みたいですね。それは何故?」

 先ほど少し触れた指揮系統です。第三十一聯隊では徳島大尉が指揮権を完全に自分に集中させ、雪中行軍への危機感を徹底させるとともに指示が分かりやすく通る体制を作っていました。これが少数精鋭にした理由の一つかもしれません。一方の第五聯隊では、神田大尉が本来の指揮官だったのですが上役の山田少佐が自分の隊を引き連れて同行すると決め、準備段階から干渉してきました。そのため、雪中行軍に対する神田大尉の危機感を徹底させることができなかったのです。行軍中も山田少佐はかんじんなところで神田大尉に相談なく命令を全体に下し、指揮系統の大混乱を招きました。これで事故にならない方が不思議です。しかもその命令が、地元の案内人を断ったり雪濠で猛吹雪をかろうじてしのいでいるときに前進の号令をかけたり、兵卒のあやふやな記憶を頼りに隊を進めたりというものでした。ここから

 ・指揮系統を統一する
 ・専門家を素直に頼る
 ・待つべき時は待つ
 ・あやふやな情報をうのみにしない

などの教訓を引き出して読む方が多いんです。

「なにわt4eさんはどんな感想を持っておられますか?」

 もう、とにかくおもしろいの一言に尽きます。でもそれじゃ話にならないので少し詳しくお話ししますと、やはり雪地獄の凄まじさに息をのみます。

吹雪は覚悟していたが、それは吹雪ではなかった。雪の狂乱だった。(P.100)
〈だいたい山というものは優しい姿をした山ほどおそろしいものだ〉と、彼の父は口癖のように言った。(P.129)

 富士山の測候所にも勤め雪山を熟知している新田氏だからこそ、こんな風に控えめな言葉になるのかもしれません。それだけにかえって雪山の恐ろしさが伝わってくる気がしました。作中で新田氏はこの行軍を「死の行進」(P.153)とも「人体実験」(P.320)とも呼んでいますが、この言葉が新田氏の見解を物語っているように思います。ただ新田氏は決していたずらに非難を投げつけているわけではありません。終章では参加した隊員たちや案内人の後日譚を簡潔に語っていますが、新田氏の彼らに対する深い敬意がうかがわれます。この点にも私は胸を打たれました。 終盤、この言葉がとても印象的です。

いや、第五聯隊は勝ったのだ。(中略)極端ないい方をすれば、五聯隊の遭難が日本陸軍の敗北を未然に防いだことになるのだ。(P.310)
だからといって、三十一聯隊が負けたのではない。三十一聯隊は立派に勝った。おそらく三十一聯隊がやりおおせたあの壮挙を二度とやることのできる者は当分出ないだろう。(P.311)

 行軍にかかわった上層部の一人、立川中将のセリフです。これだけの大事故に何をおめでたいことを言うか、という気もしますが、彼の立場で第五聯隊と第三十一聯隊の苦難を少しでもねぎらおうとすれば他に言いようがなかったのかもしれません。また割とどうでもいいことですが、第三十一聯隊が世話になる民家でごちそうになるごはんと味噌汁がなぜかやたらおいしそうで、ここを読むたびにおなかが空くんです(笑)。

まとめ

 作品自体のおもしろさはもちろんのこと、八甲田山雪中行軍遭難事件を世に知らしめた歴史的な意義や組織論としての興味深さという具合にとても多様な角度から読んで語れる、懐の深い作品です。ちなみにタイトルの「天はわれ等を見放した」は、完全に道を見失った神田大尉が口にした言葉です。本作の劇場版『八甲田山』(←Amazonの紹介ページへ飛びます)にも北大路欣也扮する神田大尉の同じセリフがあり、当時の流行語にすらなりました。

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この記事を書いた人

名もなき大阪人、主食は本とマンガとロックです。

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