先にまとめから~明治末期の自己啓発書~
このブログにお越しのみなさんは、一度は自己啓発書を読まれたことがあると思います。ビジネスで成果を出す方法や前向きに生きるための心構えなどを求めて、そうした本を手に取られたのではないでしょうか。
それでは自己啓発書っていつからあるんでしょう? 実は意外と古くからあり、明治44年には、今なお読み継がれる自己啓発書の古典が日本で出版されています。新渡戸稲造『修養』です。
おもしろいことにこの『修養』は、けっして上から目線で読者に説教垂れるわけでもビジネスで他人を出し抜く方法を教えるわけでもありません。「私もたいしたやつじゃないけど、一緒に少しずつ成長しようじゃないか」と気さくに話しかけてくれる、年上の友だちみたいな本なんです。文章は少し古めかしいけど慣れてしまえば親しみやすい、そしていざとなったら頼もしい。そんな新渡戸稲造と、あなたもひととき歩いてみませんか?
こんな方には特におすすめします。
・無数の自己啓発書にしばき倒されて疲れた方
・だけど少しはましな自分になりたいな、と思う方
・「新渡戸稲造? 『武士道』の人だっけ?」と思った方
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美濃達夫さんとの会話
(架空の人物・美濃達夫さんに本書をご紹介する、という設定で書いております)
「なにわt4eさん、自己啓発書って結局どれを読めばいいんでしょうね?」
どうなさいました、美濃さん?
「ネット広告でもいろんな自己啓発書の広告が出て来るし、たまに本屋さんでも自己啓発書コーナーを見てみるんですが、たくさんあり過ぎて何が何やら」
ああ、本当にそうですね。冊数も膨大だし、内容もビジネス寄りとか人生論寄りとか、バラエティー豊か過ぎてめまいがしますよね。
「もはやこれ、出版社の策略じゃないかって気さえしてきますよ」
どういうことですか?
「決定的な『これ一冊でOK!』というものをあえて出さないことで、永遠に自己啓発書へのニーズが絶えないようにしてるんじゃないかって気がするんですよ。考えすぎでしょうけど」
なるほど、さすがにそんなことはないでしょうけど、そう思いたくはなりますよね。
「そう言えば、世界初の自己啓発書って何でしょう?」
正確には存じませんが、一般的にはサミュエル・スマイルズ『自助論』がその草分けと言われているみたいです。読んだことありませんが。日本だと何でしょうね……新渡戸稲造『修養』は日本の自己啓発書としてかなり古株の部類だと思います。
「新渡戸稲造? あの『武士道』のですか?」
はい。
『修養』の概要
「そもそも新渡戸稲造ってどんな人物ですか?」
一言で言えば教育者、でしょうか。札幌農学校を卒業後、「太平洋の架け橋になりたい」という夢を胸にアメリカやドイツで学び、帰国後は札幌農学校などで教えたり国際連盟の事務次長として働いたりしました。以前『人間をみつめて』(←本ブログの紹介ページへ飛びます)でご紹介した神谷美恵子さんが終生尊敬した人物でもあります。
で、その新渡戸氏がつづった人生論がこの『修養』です。本書のすべてをお話しすると膨大な量になってしまうので、まずは章立てをご紹介して、それから特に私が心を引かれたポイントについてお話しします。言葉遣いは少し古めかしいですが、文体そのものは分かりやすいので慣れてしまえば大丈夫ですよ。
総説
第一章 青年の特性
第二章 青年の立志
第三章 職業の選択
第四章 決心の継続
第五章 勇気の修養
第六章 克己の工夫
第七章 名誉に対する心がけ
第八章 貯蓄
第九章 余が実践せる読書法
第十章 逆境にある時の心得
第十一章 順境にある時の心得
第十二章 世渡りの標準
第十三章 道
第十四章 黙思
第十五章 暑中の修養
第十六章 暑中休暇後の修養
第十七章 迎年の準備
一緒に歩いてくれる本
最初にお断りしておきたいんですが、新渡戸氏は大上段から説教をたれる書き方をしていません。むしろ「私もたいしたやつじゃないけど、一緒に成長しようじゃないか」と隣で声をかけてくれるようなスタンスです。例えばこんな感じ。
天上に昇ろうとして屋根に上る。たとえ達せられぬとしても、お互いの理想はかく高い所に置きたい。(タチバナ教養文庫版、以下同じ、P.229)
そして本書の目的を新渡戸氏はこう語っています。
功名富貴は修養の目的とすべきものでない。自ら省みていさぎよしとし、いかに貧乏しても、心のうちには満足し、いかに誹謗を受けても、自ら楽しみ、いかに逆境に陥っても、そのうちに幸福を感じ、感謝の念をもって世を渡ろうとする。それが、僕のここに説かんとする修養法の目的である。(P.35)
「少しでも成長できてたらそれでいいじゃないか、心穏やかに生きようぜ……そんな感じでしょうか」
ええ、そんなスタンスが親しみやすくて私は好きなんですよ。
「確かに、ビジネス系の自己啓発書でたまに感じるような読者をしばき倒す雰囲気じゃなくて安心できますね」
「大物気取りはつまらないよ」
美濃さん、覚えがありませんか? 何だか大物っぽく見えたり豪快だったりする人に、よく知るにつれて「え、こんな人だったの?」とがっかりした経験。
「ありますね、最初はすごくユニークな感じで超然として見えたんだけど『あれ、意外とみみっちい人だな』と思うこと。もちろん私だってたいした人物じゃありませんが」
新渡戸氏もそういうのを指摘しています。
例えば、甲乙二人の青年あり、甲は何の修養もなく、いわゆる本能発揮を主張し、傍若無人の振る舞いをすれば、世人から「きゃつは面白い」とか、「奇人だ」とか、「豪傑肌だ」とか言って、称賛せられ、乙が日夜細心、自ら努めて修養すれば、人より「僧のなり損ないである」とか、細瑾(引用者注:細かい欠点)を事として、物になるまい」とか言われておる。しかし、一朝、事があると、二人の態度は一変し、その修養の有無は最も鮮やかに現れてくる。(P.31~32、ふりがなは原文のまま、以下同じ)
言葉が古くて多少読みにくいですが「Aはこれと言って自分を磨くわけでもなく大物ぶった振る舞いをして世間から『たいしたやつだ』と感心され、Bは細かいところも気にかけて修養を続けて『おもしろみがないやつだ』と言われている。しかし何かあれば日頃の修養の差が明らかになる」という意味ですね。
「何となく分かります。いざという時は、日頃地味でぱっとしない人の方が頼りになったりね」
ああ、ありますね。それと似た話として、若さにまかせてむちゃくちゃに勉強して体を壊した例や「若い頃はそりゃ元気だった、石でも噛んだ」という老人の歯が全部入れ歯になっていた例を挙げて「見た目にはつまらないかもしれないが、一時の体力を頼んで無茶をせず心身を大事にして、いざという時に力を発揮できるように修養しよう」と説いています。こうしたところに新渡戸氏の地に足が着いた合理主義がうかがえますね。
あともう一つ私の大好きな一節をご紹介します。
「何ですか?」
人情を知るなら、高尚なる人情、世間の事情を見るなら、健全なる事情を知るがよい。(P.49)
有害なる知識を振りまわし、見なくてもよい縁の下をのぞいて、やれ、あそこに蜘蛛の巣が引っ掛かっている、こちらには犬の不浄物があるのと、言い立てて、あっぱれ社会通だなどと得々たるよりは、知らぬが仏だ。青年は断じて有害なることを知る必要はない。(P.50)
「ははは、動画サイトによくある『〇〇の闇が深すぎる』っていう見出しを思い出しますね」
そうでしょう? わざわざ人間の歪んだ心や社会の暗部をのぞき見して「自分は世間をよく知っている」なんて気取ってどうするの、人に触れるなら良い心に触れよう、社会を見るなら良いことを見よう、ということだと思います。事実、ただでさえ暗い部分はいやおうなしに目に飛び込んでくるんだから、自分から見に行くことありませんよね。それで自分が歪んじゃったらバカみたいです。
「世の中、鬼はいるけど鬼だけじゃないよ」
他に私が新渡戸稲造を魅力的だと思うのは、彼が「世の中、甘くはないけど大丈夫だよ」と言ってくれるところです。
僕がよく耳にする言葉に、「君、世の中はそんなに甘く行けるものではない」というものがある。そういう人は、自らは人生の真情を穿ったと思うておるかもしれぬが、実はいっそう深入りせねばとうてい穿たぬものであろう。人生は、百合の根のごときものである。剥いでも剥いでも、なお中身があるように思われる。(P.324)
僕は元来、天は人に与うるに祝福をもってするものなりと確信しておる。いかなる災難を受け、いかなる逆境に陥っても、末は必ず極楽浄土に至るものと確信しておる。迷信かは知らぬが、僕はかく信ずる。ゆえは(原文のまま)人生を悲観せぬ。(中略)自分独りの狭い小さな経験を標準として、何もかも計る。これは逆境に陥った人の大いに警戒すべき点であると信ずる。(P.325)
「それはそれで分かるんですが、逆境の真っただ中にいる人にとってはむしろ酷な言い方かもしれませんよ?」
ええ、これだけだったらそうかもしれません。ただ新渡戸氏は車夫、今で言えばタクシー運転手でしょうか、ある車夫が妙に道を知らないと思って訳を聞いてみたら、実は一時成功した商人だったが何かのトラブルで財産を失い、すでに結婚している娘に気苦労させたくないと思って人知れず車夫をしているとのことだったという体験を紹介してこう述べています。
僕はその時に思うた。彼はよく逆境に忍んでおる。もし自分が彼の境遇に陥ったならば、首でもくくって死んだかもしれぬ。あるいはやぶれかぶれとなって、盗みしたかもしれぬ。(P.347)
「そう聞くと、今まさに逆境にある人に対しては優しく励ましてあげたいと願っているように思えますね」
私もそう思います。
ときにはユーモアも
他にも盛りだくさんの内容なので、生真面目一方ではしまいに肩がこるかもしれません。
「ははは、実を言うと概要をお聞きした時に感じました」
実際、分厚い本ですしね。だからかどうかは分かりませんが、新渡戸氏は随所にユーモアも盛り込んでくれています。ギリシアの農業について調べ物をしていたらどんどん調べる範囲が広がって奥さんに「どうしてそんなに古い本をお読みなの?」と不思議がられたエピソードがあったり(P.272)、あるいは
僕がまだ子供の時であった、五歳頃と思う。父は毎夜炉辺で家族一同と盛岡名産の饅頭を食いながら、読書していたことをおぼろげながら記憶している。母は傍らに針仕事をしながら座り、姉や姉どももみな謹聴していた。僕も分からぬながら饅頭の分与にあずからんと、仲間入りをしておった。(P.277)
という一幕もあったり。また、
金が欲しいのは日本人もアメリカ人に劣らぬ。千円の金を(引用者注:現在の200万円程度?)銀座通に投げておいたらどうだろう。日本人は何分間に拾うか、その早さは決してアメリカ人に譲らぬと思う。(P.434)
ここに祈りというのは、何も天に向かい、自分の注文の目録を読み上げることではない。(中略)僕がここにいわんと欲することは、絶えず沈思黙考するの必要を説かんとするに過ぎない。(P.440)
というちょっとした皮肉もあったり。
「まんざら堅物オヤジでもなさそうですね」
そんな気はしますよね。それもあって『修養』が好きなんです。実際、心の余裕を失ったら成長もへったくれもありませんし。
なにわt4eの感想
「なにわt4eさんの感想をお聞かせください」
私が本書を好きな主な理由は二つあります。「上から叱咤」するのではなく「伴走」してくれるから、「他人に差をつける、出し抜く」ことではなく「自分が向上する」ことを目指しているからです。読者に寄り添ってくれている、と言えるでしょうか。新渡戸氏はクリスチャンだそうで、だからか
今日、キリスト教が幾億万人に慰安を与えておるのは、キリストという人が、常に逆境にあって、つぶさに人生の辛酸をなめたためであろう。(P.343)
という一節もあります。『修養』を読むとまるで新渡戸氏が、自分も散々苦しんだからこそ苦しむ人に寄り添うイエス・キリストにならおうとしていたかのようにも思えます。事実、序文で
もし本書にして、一人にても二人にても、迷う者のために指導者となり、落胆せんとする者に力を添え、泣く者の涙を拭い、不満の者の心をなだめ得るなら、これぞ著者望外の幸いであり、また年齢をも恥をも忘れた甲斐があったと思い、深く読者に感謝する。(P.6)
と言ってますしね。
『修養』をここでは自己啓発書としてお話ししていますが、自己啓発書というよりは「心強い理解者のような本」と申し上げた方がいいかもしれません。私は自己啓発書をご紹介することは少ないですが、こういう「他人を出し抜かない、読者を見下さない、一緒に歩こうと呼びかけてくれる」本なら今後ご紹介することもあると思います。
『修養』をもっと深く味わいたい方へ
(全てAmazonの紹介ページへ飛びます)
・『こころの旅』神谷美恵子
人を知るには友を見よ、師を知るには弟子を見よ……なんて言葉があるかどうかは存じませんが、新渡戸氏の人となりを知るには彼を終生尊敬しておられた神谷美恵子さんを知るのが近道でしょう。膨大な学識と深い優しさで人間の一生を考察する『こころの旅』を読めば、新渡戸氏の人物像が間接的に伝わってきます。
・『反社会学の不埒な研究報告』パオロ・マッツァリーノ
各種統計を自在に駆使して世の中をゆかいにマジメに風刺する、自称・日本通のイタリア人社会学者パオロ・マッツァリーノ。本書では刊行当時の武士道ブームを一刀両断しており、その中で新渡戸氏がゴリゴリの武士道信者などではなく、熱狂的な愛国心には警鐘を鳴らしていたことを指摘しています。これがきっかけで私は『修養』を読みました。
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