先にまとめから
あなたは 大切な誰かを喪ったとき どんな想いを抱きましたか?
どことも知れない町にたたずむ喫茶店「こかげ」。大切な誰かを喪った、あるいは喪おうとしている人たちは何故かここに吸い寄せられ、「弔いごはん」をきっかけにそれぞれの一歩を踏み出します。
亡き人に対する彼らの想い、それを見守る店員、そして亡き人と遺される者をつなぐ「弔いごはん」。苦しいけれど救われる一皿を、あなたも召し上がってみませんか?
【広告】ここをクリック→こちらから書籍情報をごらんいただけます。
【広告】ここをクリック→本は、聴こう。Amazonオーディブル。
美濃達夫さんとの会話
(架空の人物・美濃達夫さんに本書をご紹介する、という設定で書いております)
「最近気づきましたが、なにわt4eさんっていわゆる『泣ける!』『号泣必至!』という本を紹介されませんね」
ああ、変に斜に構えちゃって…「そんなに泣きたいんだったらカラシ食べれば?」って思ってしまうんですよ。
「お涙ちょうだいがお好きじゃない?」
いえ、単にヘソ曲がりなだけです(笑)。ただ、最近読んだ漫画で「死別」をテーマにしたものがあるんですが、これには胸を打たれました。
「何という作品ですか?」
うおやま『木暮姉弟のとむらい喫茶』です。
作品のあらすじ
「どんな作品ですか?」
こじんまりした昔ながらの喫茶店「こかげ」。人見知りなのにホール担当の弟・テルと社交的なキッチン担当兼店長の姉・千景が営むこの店にはなぜか、大切な誰かと死別した人や死別を間近に控えた人が集まります。励ますでもなく説教垂れるでもなく、彼らの想いを分かち合おうとするかのごとく提供される「弔いごはん」を食べた彼らは、彼らなりに心の決着をつけるのでした…。
それぞれの「さよなら」
「彼ら、ということは一話完結ですか?」
そうです。第1巻に収録されているエピソードをご紹介しますと…。
・若くして最愛の夫・達朗に病気で先立たれた女性・みゆき。二人が最後に外で食べたのは「こかげ」のハンバーグランチだった。そのときハンバーグランチを注文した達朗の真意とは? 「最後のレモンシャーベット」
・常連だった高齢夫婦の夫・二郎が、珍しく一人での散歩中に急逝。その後、妻・絹子の様子は孫のとわにもテルや千景にも違和感を感じさせるものだった…。「禁断のチョコレートサンデー」
・18年以上ともに暮らした愛猫・ハナの看取りを前に、その現実を受け入れられない美奈子。ハナの弔いを終えた彼女は妹にある問いを投げかける。美奈子自身の答えとは? 「覚悟のガーリックチキン」
・公園で小鳥の骸を目にした少女・結芽は、そのそばにあった花を引き抜いて空や木などに向かってかざす。そしてそこに居合わせたテルについて行って「こかげ」に入る。彼女の行動に秘められた想いとは? 「天国のクリームソーダ」
・テルのアパートに住む騒音男。彼は毎朝ラジオ体操のテーマを大音量で流しており住民のひんしゅくを買っていたが、何故かテルにだけは心を開いていた。ある日突然ラジオ体操の音楽が途絶え、男は救急車で搬送される。「孤独のたまごサンド」
悲しいからこそ幸せ…?
「…それぞれに死別の形や想いは違うでしょうけど、彼らにとって『別れ』や『弔い』とは何でしょうね」
それを見つけるために、彼らは「弔いごはん」を食べたのではないかと思います。例えば「覚悟のガーリックチキン」の美奈子は、
どうしても避けられないことが 人生にはあるって この年になればわかってる それでも いやだよ 私の猫── いやだ いやだ(P.98~99)
と、泣きながらランチを平らげるうちにハナを看取る覚悟を決めました。
「天国のクリームソーダ」に登場する結芽の母親は、結芽を産んだ数年後に流産を経験していました。結芽は「こかげ」から帰る道すがら母親と公園に立ち寄り、小鳥の骸を母親に見せます。そこで結芽は自分がその日花を持ち歩いていた理由、そして自分は亡くなった妹のために世界を見るという意思を話すのですが、それを聞いて母親は結芽にこう語ります。
その役目は ママが引き受けるよ だから結芽は 妹のためじゃなく自分のために世界を見なさい 結芽の人生は 結芽だけのもの 喜びも悲しみも 自分のものだよ 結芽が幸せに生きてくれることが ママの幸せだからね…(P.138~139)
「結芽と母親にとっては、その語らいが小鳥と亡くなった子どもへの弔いだったのでしょうか」
そんな気がします。彼らは間違いなく悲しんでいました。それも深く。しかし、その悲しみがあるからこそ彼らは幸せに笑えたのではないかと思えるのです。悲しみを乗り越えるというよりは、悲しみを抱えたままだからこそ幸せなのではないか、と。
「そう言えば、誰の言葉かは覚えてないんですが、どこかでこんな言葉を聞いたことがあります。『愛してその者を得ることは最良である。愛してその者を失うことはその次に良い』」
(引用者注:イギリスの作家ウイリアム・メークピース・サッカレーの言葉)
…そう思える人生が、幸せな人生なのかもしれませんね。実は「覚悟のガーリックチキン」で美奈子が妹の理央に投げかける問いかけがその言葉と少し似てるんですよ。
「どんな問いかけですか?」
「もし死んで天国に行ったとき 神様にこう質問されたら なんて答える?」
「へ?」
「『あなたの人生は 心から愛した者がいた人生でしたか』って」(P.105~106)
「宗教観はともかく、その問いには『はい』と答えられる人生を生きたいですね」
同感です。そしてテルは千景に、あんただったらどう答える? と尋ねられてこう答えます。
「答える必要はないですね」
「は!? なんで!」
「神様なら… 誰も愛さず愛されなかった者でも 受け入れる存在であってほしいからです」(P.110)
感想
「なにわt4eさんが『木暮姉弟のとむらい喫茶』を読もうと思われたきっかけは何だったんですか?」
漫画専門の書店をぶらついていた時に、帯の
ごちそうさま。そして、さようなら。大切な誰かを亡くしたあなたへ、訣別の一皿を。
という文句が目に飛び込んで、くぎ付けになったんですよ。気がついたら手に持ってレジに並んでました。で、読んでみると読者を泣かせよう・感動させようとするわざとらしさはなく、十人十色の死別をしっかり描き分けてていねいに追う作品だと感じました。とりわけ「覚悟のガーリックチキン」でハナの死を心から恐れて泣きながらもランチを平らげる美奈子、「天国のクリームソーダ」で生まれられなかった妹を幼いなりに弔う結芽に母親が語る言葉には何度読み返しても目頭が熱くなります。
私は本作を読んで、仏教の開祖ゴータマ・シッダールタのあるエピソードを思い出しました。いや、悟りを開いた後だから正確にはお釈迦様かな。
「どんなエピソードですか?」
お釈迦様のもとを幼い息子に先立たれて半狂乱の母親が訪れ、「どうか息子を生き返らせてくれ」と懇願します。お釈迦様はこう言いました。「それならどこかの家からケシの実をもらって来なさい。ただし、まだ一度も死者が出たことのない家からもらいなさいよ」母親は飛び出して片っ端から家々をあたります。ケシの実はどこの家にもありました。しかし、どの家も誰かしら亡くなっていたのです。
「そして?」
次第に母親は落ち着きを取り戻しました。誰だって、誰かとの悲しい別れを経験しているのだと。そして彼女はお釈迦様の弟子になったそうです。ここから先は私個人の解釈なのですが、これは「みんな悲しい別れを経験しているのだから我慢しなさい」ということではなく、「辛いのはあなた一人じゃない。だから誰かがあなたの悲しみを分かってくれるよ」ということのように思うのです。
「…この作品ではテルと千景がその『誰か』だと?」
彼らの過去がまだあまり語られていないのでよくは分かりませんが、少なくとも各話の中心人物にとってはそうでしょうね。
自分が見えているのは あとに残された者の 果てしない涙や喪失感だけです(P.140)
そう語るテルであり、それを黙って聞いている千景だから。
「死別を描くからには今後『自殺による死別』『犯罪による死別』『災害による死別』も、もしかすると取り上げられるかもしれませんね』
ありうることですよね。その場合、そうした死別にテルと千景、そしてその話の登場人物がどう向き合うのか? そこにも私は関心を持っています。
蛇足ながら最近よく聞く「号泣」ですが、これは「大声張り上げて泣く」ことなので、本や映画に号泣するというのはちょっと違和感がありますね。本や映画に感動して大声張り上げて泣くってことは、絶対とは言いませんがあまりないですから。
【広告】ここをクリック→こちらから書籍情報をごらんいただけます。(kindle版)
【広告】ここをクリック→本は、聴こう。Amazonオーディブル。